昭和20(1945)年8月9日未明、終戦を眼の前にして、突然一方的に日ソ中立条約を破ったソ連軍が、満洲になだれ込みました。
この日、満州の牡丹江省にあった石頭予備士官学校にも、早朝からけたたましい非常呼集のラッパが鳴り響きました。
校庭に全員整列しました。

校長から「本日未明、ソ連軍来襲、目下交戦中」の非常事態が伝達されました。
3,600名の生徒は2組に分けられました。
歩兵砲、機関銃隊1,600名は荒木連隊長の指揮下に。
残りの2千名は学校長の小松大佐のもとで東京(とんきん)城に布陣しました。

対する敵のソ連軍は、投下兵力158万人の大部隊です。
メレンコフ元帥が直接率いる主力部隊の第一極東戦線だけで、歩兵4師団、十二個狙撃師団、戦車二個師団、十五個国境守備隊、大隊砲3,500門、ロケット砲430門、戦車約1,000両、他に空挺部隊などを持つ、ソ連最強の大部隊です。

このときの戦闘の模様が、当時まさにその石頭予備士官学校の生徒であった高崎弥生氏の『実録 遥かなる回想』に記載されています。
すこし引用します。

 ***

ついに候補生にも出撃命令が下った。いまこそ祖国のために一命を捧げる時が来たのだ。
かねて覚悟はしていたとはいえ、悲壮な思いが、ひしと胸に迫り、完全武装を急ぐ手が震えた。

一瞬、故郷の父や母の顔が瞼をかすめた。
「長い間お世話になりました。
 国のため、先立つ不孝をお許しください」
おそらくこれが今生の別れとなろう。
こみあげる熱い思いをぐっとこらえ、私はひそかにわかれを告げた。

「悠久の大義に生きるを本文とすべし・・・」
死ぬことだけを教えられた日々・・・今こそ祖国のために一命を捧げるのだ。

東京(とんきん)城方面へ行軍中、避難の在留邦人達がトラックに満載され「お願いしま~す」「頑張ってくださ~い」、悲痛な声で叫びながら、祈るようなまなざしで次々と通り過ぎて行った。
軍隊を唯一の頼みに、すがりつかんばかりの必死の叫びに、胸をしめつけられるような、全身に激しい闘志と責務に奮い立った。

夜を徹して駆け足行軍が続き、翌未明、「隘路口(あいろくち)」到着。
敵戦車を迎え撃つべく、一文字山峡に布陣。
正午ごろ、山麓の川辺で大休止となり、石頭出発依頼、満足に食っていなかった私達は、やっと米にありつき、久しぶりにハンゴウ炊きをしながら、熱くてたまらず、一緒に水浴びをしていた。

そこへ突如、山陰から飛来したソ連機が攻撃してきた。
爆弾が落下、大地を揺るがす轟音とともに砂塵が吹きあがった。
いましも湯気のあげるハンゴウに敵弾が命中。
川面に機銃掃射のしぶきがあがり、静かだった山峡はたちまち戦場と化した。

軍服をまとう暇もなく、慌てて身を伏せた。
重機関銃の傍らにいた私は、対空射撃の命令とともに、素裸のまま機関銃発射の握把をとった。
真っ先に狙われる重機関銃。
しかも初陣に素っ裸とは・・・。
死ぬにも死ねない気持ちが先に立ち、不思議と怖さはなかった。

乏しい弾薬とみて、おもいきり低空へ降下してきた敵機から、乗りだすような敵兵めがけて、夢中で発射。
「小癪な!撃たれる前に撃ち落とせ!」
体内の血が逆流し、炎のような闘志が全身に煮えたぎった。
「敵弾よ、それまでは当たるな!」
必死に祈りながら、ただもう懸命に撃ち続けた。
武器弾薬欠乏と思いこんでか、思いもよらぬ対空射撃に驚いた敵機が山蔭にかくれた隙に、ただちに部隊は出発。この戦闘で、青木中尉他、多数の死傷者が出た。

 ***

重機関銃というのは、重さが50kgもあります。
その重機関銃を、担いでの駆け足行です。
当時の関東軍は、必要な武器弾薬兵器を南方戦線にことごとく送っていて、いわば案山子(かかし)軍団状態でした。そのなかで、わずかに残った重機関銃です。弾薬も僅かしかありません。

ちなみに、この戦闘の直前まで、日本は満洲のインフラ整備のために、ダムや道路、鉄道線路の敷設をしています。つまり、歩兵銃を含め、当時の満洲に残った関東軍に残されていたのは、不十分な武器、弾薬以外と、工事用のダイナマイトくらいしかなかったのです。

こうした状況を掴んだ上で、ソ連軍は158万の大軍を投下してきたのです。
互角の装備では、日露戦争や、それ以降の国境付近の衝突事件等で、ソ連兵はコテンパンにやられていました。それだけ彼らは日本軍が怖かったのです。

東京(とんきん)城方面に向けられたソ連軍は、航空部隊や戦車部隊を含めて約50万の大軍です。
これを、歩兵銃の弾もろくにない、重機関銃の弾薬さえも欠乏している石頭予備士官学校の生徒たち3,600名で迎え討ったのです。
続けて引用します。

 ***

事態は急変した。敵が近くまで迫ってきたのだ。
支給された爆薬は、ランドセルくらいの大きさで、中にはダイナマイトがびっしり詰まり、30cmくらいの導火線がついていた。いわゆる「急造爆雷」である。

その先にマッチ棒を3本、木綿糸でしっかりとくくりつけた。
敵戦車が接近したらマッチ棒をすって点火させてから、爆薬を抱えたまま全力疾走で突っ込む作戦である。

点火後、3~4秒で爆発する。
これを「対戦車肉迫攻撃」といい、略して「肉攻」と呼んだ。

敵は明朝になれば必ず攻めてくる。
来ればどうなるかは、もう誰もがわかっていることだ。
あと数十時間の生命である。
蛸壺のなかに寝転んで暮れゆく空を見上げていると、なぜか故郷のこと、母のこと、兄弟のこと、幼いころのこと等が次々思い出されてくる。

8月13日、代馬溝陣地を突破したソ連重戦車が、ついに磨刀石にその姿を現した。
地面を揺るがせながら、道路を一列になってゆっくりと我が陣地内に侵入してきた。
この道路の両側には、草や小枝で擬装した蛸壺の中に「急造爆雷」を抱いた候補生が潜んでいた。

戦車が近づくと、次々と「先にゆくぞ」と叫んで、敵戦車に突入して行った。
戦車には自動小銃を構えた歩兵が随伴していて、蛸壺を見つけたら、中に潜む肉攻手を狙い撃ちするので、飛び込むまでにやられる者もあれば、同時に爆薬が炸裂し、敵もろとも吹き飛ぶ壮絶凄惨な戦闘が始まった。

味方の重機関銃も猛然と射撃を開始し、小型迫撃砲も一斉に発射された。
この重機関銃陣地をつぶそうと、敵の戦車砲、機関銃が集中砲火を浴びせてくる。
後方の高台に布陣をしている友軍砲兵が援護射撃を開始し、榴散弾(りゅうさんだん、弾の中に多数の散弾がつめてあり、炸裂して人馬を殺傷する)を浴びせかける。

敵は炎上する戦車を道路下に突き落として、次々と進撃してくる。
蛸壺の中では、爆薬を抱えた数百名の候補生が息を殺して潜んでいる。
やがて、肉攻壕の土が、ボコボコと戦車の地響きで崩れ始める。
耳を聾するキャタピラの音、重油の焼け焦げる匂いが胸をつく。

敵の随伴歩兵がトラックから降りて、自動小銃を構えて、戦車の周りに見え隠れして続々と向かってくる。
ソ連兵の自動小銃が肉攻壕を狙えば、肉攻手は、即座に自爆だ。

重機関銃隊が、銃の偽装の小枝をそっと払った。
たちまり味方の重機関銃がうなった。榴弾筒部隊も発射した。
20数名のソ連兵がぶっ倒れた。

ひるんだ敵の歩兵が戦車から退いて行った。
肉攻手が爆弾を抱えて踊り出た。
ひとりの肉攻候補生が、蛸壺を飛び出すと、爆雷を道路に置いて伏せた。
ソ連戦車は急ブレーキをかけて爆雷の3メートル手前で停まった。
候補生は、ほふく前進して爆雷を戦車の下に押し入れようとした。

戦車の直前で、爆雷は轟音を発し、半身は高さ20メートルまでも白煙とともに砕きあがり、鮮血を撒き散らしながらぐるぐると回転して、またもとの位置に落下した。
東満洲の軍都、牡丹江の防衛最前線として磨刀石に布陣した石頭予備士官学校候補生の、ソ連戦車体当たり戦法は、こうして開始された。

またひとり、小さな体で四角い爆薬の包みをかかえて飛び出していく。
一瞬、ものすごい閃光がひらめき、白焔が戦車をつつむ。
そして、またひとり・・・
突然、戦車の砲頭の下から吐き出す紅蓮の火炎に巻き込まれ、すさまじい轟音とともに自爆した。

肉攻陣地があることを察知したのか、敵戦車はしばらく前進を躊躇(ちゅうちょ)したが、こんどは火炎放射機で周囲の肉攻壕を焼き払いながら、その上に乗っかってグルグルと回転しはじめ、敵の歩兵も散開して肉攻壕に、自動小銃をを撃ち込んで進んでくる。
味方の重機関銃が銃身も裂けんばかりに撃った。
敵戦車の砲身や機銃が、一斉に味方の重機関銃小隊に集中した。

第一分隊の銃手、即死。
重戦車の巨砲が向きを変え、味方の陣地に向かって水平射撃の位置に砲身を構えた。
五体を揺るがすような炸裂が山野をゆるがした。
体は壕に叩きつけられ、舞い上がった土砂で半分ほど埋まった。

陣地における指揮連絡はまったく寸断され、日が暮れて、生き残った者同士が、負傷者をかばいながら引き揚げてくるが、集合場所さえ定まらない乱戦となった。

川上哲次候補生は、手記にてこのように報告している。
「道路上に3~40両の敵戦車が
 轟音をあげてあらわれた。
 まるで動く岩のようであった。
 またひとりの肉攻手が、
 爆薬をかかえておどりでた。
 戦車はとまらない。
 肉攻手の姿が一瞬見えなくなった。
 次の瞬間、
 肉攻手は、
 戦車のキャタピラに腕を挟まれ、
 逆さ宙づりになった。
 おもわず息をのむ。

 そのとき爆薬が炸裂した。
 ピカッ、グワーン!
 閃光が走り、ものすごい煙に包まれ、敵戦車は立ち往生した。
 恐ろしくなったのであろう。
 ソ連兵は戦車から飛び出し、逃げ出した。
 勇敢な肉攻手が2~3名、壕から飛び出し、敵の戦車に躍りあがり、掩蓋(えんがい)から中にはいる。
 戦車の砲塔が、ぐるりと後ろを向いた。

 ズドーン!
 すぐそばまできていた後続の戦車めがけて、ぶっ放したのである。
 「やった!」
 と壕の中では歓声があがった。
 続いて戦車めがけて一発!
 そしてまた一発!
 分捕り戦車は猛然と火を吐いた。
 痛快極まるとはこのことか。
 たちまち5~6両の敵戦車を粉砕してしまったのである。
 後続の敵戦車群は大混乱となり、後退した。

そのときの勇士は、鈴木秀美候補生、一之瀬候補生、和泉伍長の3名である。
鈴木候補生は、敵戦車の構造をよく知らず発砲の折、砲座で顔面を強打し、大腿部も負傷していた。
彼は、戦車から外に出て、中隊長や戦友に向かい、
「自分は負傷してこれ以上戦えない。
 速射砲の分隊長として、
 砲と運命を共にする責任がありながら、
 砲は射撃不能となった。
 自分はここで砲とともに自爆する。
 天皇陛下万歳!」
そう叫ぶと、10キロの爆弾を抱きしめ、壮絶な爆死を遂げた。

猪俣大隊長は、戦車砲撃の直撃を受け、一片の肉も留めぬ壮烈な戦死を遂げられた。
代わって大隊の指揮は、梅津眞吾中尉がとられ、敵戦車に果敢な奇襲攻撃をかけられたが、ついに陣地は敵戦車に蹂躙され、死傷者続出の事態となった。

梅津中尉は、もはや組織的な戦闘は不能と判断し、生存者を集めて、後方の山中に入り、脱出した。
8月15日、掖河(えきか)の本体にたどり着いたときは、磨刀石出撃時に750名いた猪俣大隊の候補生は、わずかに105名になっていた。

 ***

昭和20年8月9日、ソ連が突如として日ソ中立条約を破棄して日本に襲いかかったとき、当時のことについてよく聞かれる戦後左翼のデタラメのひとつに、
「軍隊はソ連軍がやって来ると、
 日本人の市民をほったらかして逃げた」
という、とんでもない侮辱があります。

多くの兵隊さんがお亡くなりになっている中にあって、
同じ同胞にこれほど酷い侮辱を与えるというのは、
日本人のすることではありません。

当時の満州には、戦時徴用のために、日本人の男性はほとんど南方戦線に送られてしまっていました。
残っていた男子は、ごく少数の上にご紹介したような予備士官学校の生徒さんや、一部の日本人警備兵、それと(ここが大事なポイントですが)終戦間近になってやっと徴兵されるようになったKorean兵でした。

ソ連軍がやってきたとき、戦うべき兵士たちは、内地からやってきた日本人の正規兵たちだけで編成されました。
数十倍の完全武装し圧倒的火力を持った敵を相手に、ごく少数の兵で戦うのです。
そのために必要なのは、兵の練度です。素人集団では、悪いけれど足手まといになるだけなのです。

なぜ戦わなければならないかも明確です。
同年同年8月14日には、葛根廟事件が起こっています。
この事件は、満州国興安総省の葛根廟(いまのChinaの東北部のモンゴルと国境を接するあたり)というとろこで、戦災からの避難のために集まっていた日本人婦女子千数百人がソ連軍によって攻撃され、千名以上の婦女子が虐殺されたものです。
簡単に言えば、被災地にある女子供ばかりの避難所を、ソ連軍が襲い、全員を虐殺したのです。

当時の西洋の戦線では、戦いに負ければ婦女は徹底的に陵辱されるのが常識でした。
そもそも有色人種は「人」でさえなかったのです。
ですからなにがなんでも、婦女子を逃がさなければならない。
そのためには戦える能力を持った者で戦い、なんとかして敵を足止めして、その間に婦女子たちを逃がさなければならない。

そういう戦いを、ごくわずかな少数の兵で大軍を相手に行うとき、練度の低い兵は使い物になりません。
ましてKorean兵は、その年の初夏にようやく徴兵されたばかりです。
彼らは体格もよく、日頃はきわめて勇ましくて生意気だし威張り散らします。
けれど、いざホンモノの敵弾が飛んでくると、すぐに
「アイゴー (아이고)」
と叫んで銃を捨てて逃げてしまう。
だから現実の問題として、使い物にならなかったのです。

大昔の刀による斬り合いなら、個人の腕力が強いことや度胸があることがものをいいます。
しかし第二次世界大戦の頃には、戦いは銃や砲弾が用いられています。
そういう戦いで、しかも寡兵でたくさんの兵を相手に戦わなければならないとき、ものを言うのは、なにより責任感です。
どんなに腕力が強くて度胸があっても、責任感のない者に本当の戦いはできないのです。

このことはKoreanを侮蔑するとかそういうことではありません。
非常事態には「それにもっともふさわしい対応をとるしかなかった」という現実です。

この時代、Korea半島の日本の統治は、はじまってまだ36年です。
半島には、まだまだ李氏Korea時代の無教養な社会が色濃く残っていました。
日本は、彼らに新しいKorea、責任感あふれるKoreaを築いてもらいたかった。
けれど民族的特徴というのは、個人の資質の問題とは異なります。
99%のKorean兵が、責任感の強いまっとうな日本人に育っても、のこりの1%が、あるいはたったひとりの中世のkoreaに染まった半島兵が、アイゴーといって逃げ出してしまったら、全軍が総崩れになるのです。
それはギリギリの戦いをするとき、最も避けなければならないことです。

ですから北満州にソ連軍がやってきたときも、日本軍は、兵舎にKorean兵だけを残し、内地の日本人兵だけで迎撃に向かいました。
そして、ちゃんと責任をまっとうできるKoreanの幹部将校に、街を守ること、婦女子を無事に逃がすことを託して、内地兵だけで戦地に赴いたのです。
そんな内地兵たちだけによる戦いの様子が、上に述べた石頭予備士官候補生たちの戦いです。

では、Korean幹部将校とKorean徴兵兵だけが残った日本軍の兵舎では何が起こったのでしょうか。
その答えは、Korean徴用兵の反乱でした。
彼らは責任感の強いKorean将校を銃で殺害すると、兵舎に火をつけ、街にいる婦女子をほったらかして一目散に逃げ出したのです。

この悪事を働いたあとに放火して逃げるということもまた、昔からのKorea文化です。
関東大震災の際の災害も、まさにこの手口によって、死ななくても良い13万人が焼死しています。

ところがここで問題が起こるのです。
陸軍基地にいたkorea兵は、日本陸軍に所属し、日本陸軍の制服を着ています。
そんなKorea兵が、兵舎に放火して逃げていく姿を、まだ幼かった日本人の子供たちが見ていたのです。
そういう子供たちの何人かが戦後、
「日本軍の兵舎には火がつけられ、  兵隊さんたちは、  わたしたちをほっておいて逃走した」
と語りました。

同時に、GHQのプレスコードによって、日本国内ではChinaやKorea悪口は一切、言っても書いてもいけないことになっていましたから、「逃げたのはどういう人たちだったのか」という肝心の点が曖昧にされ、あるいは秘匿されたまま、そんな話が吹聴されたのです。

実際には、ほとんど武器らしい武器さえなかった北満州の日本人による日本の内地人による守備隊が、ソ連製の戦車を前に、肉弾突撃までしてこれを食い止め、彼らの侵攻を遅らせてくれました。
そうして時間を稼いでくれたから、日本人の婦女子は逃げることができたし、逃げて生きのびることができたからこそ、大人になったその子どもたちが、そんな「証言」をすることができたのです。

その証言の中には、「兵舎に残っていたKorea兵たちが」と、事情を正確に伝えるものもありました。
けれどこれが文字になるときには、GHQが敷いたプレスコードによって、肝心の「Korea兵」という部分が編集でカットされました。

だから多くの当時を知る日本人は、こうした編集された「証言」から目をそむけました。
気がつけば、事情を知らない戦後生まれの子どもたちが、「証言」を信じるようになっていました。
結果、私たち戦後世代は、こうして立派に生き、立派に戦ってくださった先人たちを、ただいたずらに貶め誹謗し、中傷し続け、それは今も左翼や在 日による反日活動となって、継続しています。

戦後79年。
戦時中の日本のサムライたちの戦いは、ひたすら辱められ続けました。
この79年間に、反日宣伝のために投じられた費用は天文学的な数字になるとさえいわれています。

しかし、嘘は百万回ついても、嘘なのです。
よく「嘘は百回言ったら本当になる」という人がいますが、それこそ嘘です。
百万回の嘘でも、一片の真実によって、崩壊するのです。
なぜならここが日本だからです。
日本人のDNAは、真実を好みます。
いくら天文学的な工作資金を投じても、真実を消すことはできないのです。
たったひとつの真実の炎が残る限り、嘘はくつがえるのです。

日本人は、天皇のシラス国の住民です。
シラス国では、民衆の一人ひとりが「おほみたから」です。
だから日本人は、お互いを尊重しようとします。
逆にいえば、いまだに目を覚まさない人は、ウシハク隷民と化した憐れな奴隷たちだということです。

※この記事は2014年8月のねずブロ記事のリニューアルです。

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