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共に学ぶ『倭塾サロン』
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昔は陸軍記念日(3月10日)といえば、昔は靖国神社で、角力(すもう)や能楽といった催しものが行われました。
そして靖国神社のすぐ近くにある陸軍士官クラブであった偕行社(かいこうしゃ)で、陸軍の将校たちの立食パーティーが催されました。
ある年のこと、乃木大将はパーティが夜の8時近くになって散開となったので、徒歩で富士見町方面に向かって歩かれていました。
乃木将軍が富士見町の近くまでこられたときのことです。
右手の暗い横町から、ポッと光った辻占(つじうらない)と書いた提灯を持った、歳の頃なら10歳か11歳くらいのみすぼらしい少年が、
「淡路島かよう千鳥(ちどり)の恋の辻占ぃ~~」
と、いっぱいに声を張り上げてやって来ました。
「今夜も親孝行の辻占売(つじうらうり)が来たよ、
買ってやりましょうよ」
お座敷へ行くのか帰るのか、芸者の一群が少年から占いの紙片を買っています。
そうかと思うと、
「私にも一つおくれ」
「ちょっとこっちにも」
と、みてる間に占いの紙が売れること売れること。
少年は、
「姐さん有難うよ、
買って下さるのは有難うございますが、
毎晩、私の往くのを待って居て買って下さるお客さまがあります。
せっかく待って居て下さるのに、
売り切ってひとつも持って行かなくては済みません。
五ツ六ツ残して置きますから、
もうこれでありません。
ありがとうございました」
などと挨拶していました。
芸者さんたちは、
「ほんとに正直な子だよ、この子は
また買って上げるね~〜」
「ハイ皆さん有難う」
少年が立去るうしろ姿を見送って、芸者さんたちはおしゃべりをしながら行き過ぎていきました。
少年が、
「ありがたい。
これでおっかさんに薬を買ってあげられる」
とひとりごとを言いながら行こうとすると、
空の人力車をひいていた車夫のおじさんが、
「オイ武坊(たけぼう)、馬鹿に売れたなあ」
と、声をかけます。
「ヤア、おじさんかい。
今夜もまた会ったね。
お客さんあるかい。
僕、うれしいよ。
今夜も全部売れちゃった」と少年。
「売れるのが当りめえよ。
お前の親孝行が評判になって
いらない人まで買ってくれるんだ。
親孝行の徳は宏大だねぇ。
お天道様(てんとうさま)だって、
ちゃぁんと見ていてくださるんだ。
俺なんざア、今夜という今夜は
すっかりあぶれちまってよ、
これから濁酒(どぶろく)を一杯飲む銭も取れねえや」
「おじさん。
何だか今夜は冷たい風が吹いて来てるから、
これから降り出すかもしれないよ。
さっきさ、
余分に十銭もらったお銭(あし)があるから、
おじさん、これで一杯飲(や)って、
今夜は早くお帰りよ」
「冗談言っちゃアいけねえ、
親孝行の武坊(たけぼう)が
一所懸命売って歩いた銭を、
何んで貰えるもんか。
志(こゝろざし)は有難てえけど、
これはよそうや。断るよ」
「だっておじさんには、
始終、うちのおっかさんが
お世話になっているんだから」
「そうかい?、
すまねえなあ。
なーに、もう少し待ってりゃあ、
富士見町帰りがあるから、
稼いだら返すぜ」
「はい、じゃ、これ。
でもおじさん、
いい加減にしてちゃんとお帰りよ」
と車夫と少年が左右に別れます。
車夫のおじさん、
「ありがたい、ありがたい。
これで一杯飲んで威勢がデルってもんよ。
それにしても感心な子だなぁ。
病身のおふくろさんを抱えて、
とにかくやっててるんだものなぁ。
大の男でも俺なんざあ意気地がないなぁ。
。。。エー旦那、神田まで帰り車でございますが。。。
エー御新造さま、
麹町(こうじまち)へお帰り車でござんすが。。。」
こうして車夫のおじさんが、しきりに客を呼んでいるところに、たまたま乃木将軍が通りがかりました。
「オイ、車夫、くるまや」
「ヘエ旦那、
有難うございます、
何処までお供をいたしやすか?」
「五番町まで遣やってくれ」
「ヘエ五番町までですか」
実は、車夫のおじさん、少し驚いたのです。
お客さんは、見るからに立派な軍人です。
ところが、五番町はすぐそこです。
どうしたんだろう?と内心思いながら、人力車の轅棒を下ろして、将軍を乗せます。
人力車が走り出すと、軍人さんが車夫に声をかけます。
「オイ、車屋、
今の辻占売りは感心な子供だが、
どこの者だ」
「ヘエ、旦那は御存じですか、
さっきまでのことを。
いや面目もございません。
あれは手前と一緒の棟割(むねわり)長屋で
四谷仲町からガードをくぐったところで、
質屋の裏でございます」
「おっかさんが病気のようだの」
「ヘイ、永のわずらいで。
ナニね、亭主と云うのが、
日露戦争の時松樹山で戦死して、
あとに残されたのが、
今病気で寝ているおふくろさんと
いまの武松という子でございます。
身体の達者なうちは針仕事などをして、
子供を養って居りましたが、
心配をしたのと無理に身体を使ったので、
リウマチを罹らって
足腰も立たないという始末。
ところが感心じゃぁありませんか。
今の子供が朝は新聞配達、夜は辻占売り
それでどうやらおっかぁの薬代にしたり、
その日その日をすごして居ります。
それに可哀相なのは学校で、
ほかの生徒達にゃぁ、
あいつは辻占売りだ新聞配達だと、
悪口を言われているので、
わっしなどはこの間、
悪口を言った奴を二三人はりたおしたくらいです。
学校の先生方は武坊の事をほめて、
模範生徒だなんて言ってくれるんですが、
やっぱり体がが続きませんや。
一日行くと二日位は休んで居りますが、
おとっさんさえ生きて居れば、
あんな苦労はさせずと済むのでございましょうが」
と車をひきながら話します。
「ウーム、そうか」
車上で聞く将軍。
やがて着いた五番町の立花寛藏という人の門前で、将軍は車屋に多分の賃銭を与えられた上、尚も辻占売の住所姓名を詳しく聞くと、
「感心な子じゃ、
同じ長屋に住むならば、
精々面倒を見てやってくれ」
「ヘエ、有難う存じます」
と将軍は立花氏の屋敷にお入りになりました。
さて、ここは四谷鮫ヶ橋。
質屋の路地の突当りに、屋根は傾き、軒(のき)はゆがんだ、見るも貧しい破ぶれ長屋。
四畳半の片隅には、せんべい布団にくるまって、病(やまい)に苦しむ母親。
武松は、この夜更まで、翌晩に売りに出る辻占の紙を巻くのに専念しています。
そこに、
「オイ、武坊、寝たかえ?」
と、さっきの車屋さんがやってきます。
「あぁ、小父さんか。仕事あった?」
「うむ。まだ起きてたか。
なぁに戸を開けなくともいいぜ。
さっき借りた金を返そうと思って
ちょっと声をを掛けたんだ」
武松は立ち上って戸を開けます。
「いま、閉めたばかりなんだよ。
おや?おじさんまた酔ってるね」
「あははは。
馬鹿に良い仕事をして、
腹掛けの丼が重くなったので、
つい何だ、
五合ほどやらかした。
だが武坊に、
さっきの十銭は返そうと思ってな、
これこの通りちゃんと使わずにある」
「十銭はどうでもいいけど、
あまりお酒を沢山飲むと、
小父さんからだを悪くするよ。
あら、おじさんが余り大きな声をしたので、
おっかさんが目を覚ました。
おっかさん、熊さんですよ」
「おやおや、只今お帰りですか、
さぞお疲れでしょう。
いつも武(たけ)がお世話になりまして」
「いやいや、すまねえ。
わっしがあまり大声を出したので
目を覚まさしちゃった。
病人は寝て居る間が極楽だってえのに、
起して済まねえなあ。
武坊には、わっしの方が世話になっているんだよ。
今日も武坊に借金してね。
今返しに来たんだ。
大人が子供に金を借りるとは
世の中がさかさまになった。
あははは。
どうだね?からだは。
なに、だいぶ快いって。
結構けっこう。
早く快(よ)くなって、
武坊に楽をさせてやんなせえよ。
かわいそうだぜ。
朝早くから夜遅くまで。
それでも孝行な息子だと評判で、
辻占も好く売れて、
いいあんばいだ」
などと、酒の機嫌か口がるな話です。
そこに折しも表に響く足音。
ヌーッとはいって来た、ひとりの男。
年の頃なら四十二三、横びんの禿げた色の浅黒い、眼のギョロッとした嫌な感じを起させる奴です。
それを見ると親子の顔の色はサッと変った。
「オイどうしてくれるんだ」
とお定まりの文句は言わずと知れた借金取りです。
親子がハラハラするのもとんちゃくなく、大声で怒鳴りたてます。
母「誠に申訳ございませんが、
御覧の通りの始末でございます、
もう少々お待ちを願います」
男「もう少し、もう少しと、
一体いつ返してくれるんだ。
そうのんべんだらりと待っちゃいられねえんだよ。
今日という今日は是が非でも貰って行くぜ」
母「でもございましょうが、今日といっては」
男「じゃア何かある物を貰って行こうか」
と母親の掛けている夜具を剥いで行こうとします。
武「おじさん、待ってよ。
それを持って行っちゃ、
おっかさんが寒いよ。
お願いだから勘弁しておくれ」
男「なら金を返せ」
武「明日返すよ」
男「てめえの明日は、
聞き飽きたんだよ。
さあ、これを貰って行くんでい」
と、またも夜具に手を掛けます。
母子は泣いて止めようとする。
おりから、車屋にに教えられた質屋の路地。
ここかしこと探しながら来られた乃木将軍。
見れば一人の男が病人の掛けて居る夜具をひっぱがして小脇に抱え、辻占売の少年の取すがるのを足蹴にして立ちいでようとする様子。
将軍、つかつかっとそれへおいでになると、ものも言わず金貸の肩口をグイッとひっつかんだ。
男「ヤイ何をする。ぜんたいおめえは、何だ!」
乃木将軍「なんでもよい。車屋、これはどうしたのじゃ」
一目見た車屋の熊吉。
熊「やっ、これはさっきの旦那でございますか。
よくおいで下さいました。
実はここのおふくろが医者に診て貰った時に、
苦しいのでその人から十円、金を借りたんで。
それが利息に利息がかさんで、
十七円と幾らかになってるんでさあ。
取りに来たって払える訳がありませんや。
幾ら訳を言っても聞きいれないで、
御覧の通りの有様でございます」
始めて将軍が手を放すと、金貸は図に乗って、
男「さア面白い、
借りた金を腕ずくで踏み倒すんなら倒して見ろ。
地獄の鬼が貸したら、
文久銭でも取らずに置かねえんだ。
こうなりゃ、意地ずくだ。
腕力でも取って見せるんだ」
といきなり将軍へ組み付いて来る。
乱暴な奴だと思った将軍、
「無礼者っ」と大喝一声、そこにぱっと投げ付けます。
起上がるかと思うと、男はそのまま大の字になって、
男「さぁ殺せ、畜生 殺しやぁがれ」とわめきちらします。
これにはさすがの将軍も困ったけれど、
ふと目についたのは、
薬でも煎じるためか、鉄瓶の湯が沸きかえっています。
それを片手に提げると、
「殺せっ殺せっ」とののしる金貸しの頭の上に持って来てあけようとするから、
さすがの強情な男も驚いて、パッと跳ね起きます。
男「ワーッ、貴様、
と、と、飛んでもねえことをするな」
乃木大将「あはははは。馬鹿者っ!
殺せ殺せというなら
沸湯(にえゆ)ぐらいが怖(おそ)ろしいことはあるまい。
さあ出せ顔を茹(ゆ)でてやる」
男「冗談いうな、どじょうじゃあるまいし、
茹でられてたまるものか」
乃木大将「そんなら静かにせい。
貴様も騒いだとて金が取れる訳でもあるまい。
静かに話をしても分るだろう。
いったい当家へ貸した金はいくらあるのだ。
今、このの車屋が言うには十七円幾らとかあるそうじゃが。
なに、十七円と五十二銭。。。
おかみさん、借りた額に違いないか?
よしよし、ところでその金は、わしが立て替えてやろう。
わしからの金ではいかんかな」
とジロリと睨(ね)め付けられ、年に似合わぬ大力(だいりき)に、よくよく見れば、どうやらただの軍人ではないらしいのに内心ぎょっとして、急に言葉も変り、
男「いえ、貸しました金を取りさえすればそれでよいのでございます。
乱暴なことをするように思召すかも知れませんが、
私共の商売はこの位にしませぬと、
つい貸し倒れが出来ますので」
乃木「それでは十七円五十二銭で宜いのじゃね。
しかとよいか?
あとでまた何とか云うと許さぬぞ」
と、ふところから十円札二枚を出し、釣銭を受取って、
乃木「証文とか云うものがあろう、それを出せ」
男「ヘエ」
と財布から証文を出し、将軍の手に渡すや否や、コソコソと出て行きます。
後姿を見送って将軍は、苦笑しながら、親子にその証文をお渡しになりますると、母子は左右から頭を畳に摺り付けて嬉し泣き。
母「御親切様に何と御礼を申して宜しいことやら」
乃木「いやいや礼を云われるに及ばぬ。
貴女の病気をお見舞をし、
松樹山に名誉の戦死をなされたという
貴女の夫の御位牌に御線香を上げ、
またせがれさんの苦労をなぐさめようために参ったのじゃ。
私は乃木希典じゃ」
聞いて母子はびっくり、車屋も諸共そこへ両手をついて改めて御挨拶をします。
乃木「いやいや、そう挨拶をされると、わしが困る。
今のような者に責められるたびに、
夫が居れば、父が居ったならばと嘆かれるじゃろう。
その父なり夫なりは、
松樹山で乃木の部下に属して戦死をした。
殺したのは乃木だと恨まれるじゃろうが、
これも御国のためだとあきらめて貰いたい。
これは軽少じゃが御仏前に上げて下さい」
と紙に包んだ二十円の金。
別に五円を「よく孝行しなさいよ」と言って武松に下さいました。
母子は、ただ涙のほかはなく、将軍は静かに仏壇に向われ、生ける人に物言う如く松樹山の功績を賞されて回向をされました。
***
以上は、一昔前まで、講談でよく語られた乃木将軍のお話シリーズのなかの一コマです。
すこし大きな神社に行きますと、全国津々浦々、境内に「忠魂碑」と大きな筆字で書かれた石碑が立っていますが、その文字の横に、「希典書」の文字があります。
これは乃木大将が、日露戦争の戦没者を顕彰して、それぞれの兵の出身地の神社に寄贈された石碑です。
裏にまわってみると、そこに亡くなられたたくさんの人の名前が掘ってあります。
戦前までの日本は軍国主義の侵略国家であったという声を耳にします。
けれど、もし自分が戦闘の指揮官だったと想像してみてください。
そして多くの大切な部下が死に、自分が生き残ったと想像してみてください。
他の国の人のことは知りません。
けれど、日本人なら、たとえ戦いに勝ったとしても、それはとっても辛いことです。
戦前の軍人さんたちも同じです。
同じどころか、いまよりももっとはるかに日本人は、みんなが家族という考え方が社会の底流をなしていたのです。
この浪曲が、瞬く間に全国に広がり、多くの人々の共感を得たのは、しっかり者の孝行息子や、病に倒れた母親以上に、多くの軍人さんたちやその家族に、物語に登場する乃木大将のような振る舞いを、できはしないけれど、できるものなら亡くなった部下のためにしてあげたいと思う、そんな思いが共感を生んだからです。
軍人は、戦いとなれば人を殺し、殺されるのが仕事です。
けれど、軍人であると同時に、日本人であり、人です。
だからこそ、思い悩むし、苦しむし、だからこそ、戦わずに済むよう、毎日猛烈な訓練に励むのです。
かつての日本の軍人さんたちを鬼畜のように言う人がいます。
けれど通州事件や、先日ご紹介した廊坊事件などにもあきらかなように、日本の軍人さんたちは、まさにその鬼畜と戦うために、鬼畜から同じ日本人を、あるいは現地の人々を守るために戦ったのです。
日清、日露、大東亜戦争において、日本の戦いは、常に対等な軍勢との戦いであることの方がめずらしいという状況でした。
いつも多勢に無勢です。
豊富な火力対貧弱な装備、相手国の兵士が腹一杯の食料を持つのに対し、自分たちはいつも貧しい食事です。
それでいて、常に10倍、20倍の敵と猛烈な戦闘を戦いぬいてきたのです。
なぜそこまでして戦ったのでしょうか。
理由はたったふたつ。
祖国を守るためと、
現地の一般の人々を護るためです。
日露戦争では、戦後、日本国政府は、亡くなられたひとりひとりの兵士に、できる限りの慰霊をしました。
なぜ慰霊をしたのでしょうか。
軍人さんたちは、国の命令で戦ったのです。
そうであれば、亡くなられた軍人さんたちの御霊を、国が慰霊すること、そして残された遺族の方々に精一杯のことをするのが、国として当然のことと考えられていたのです。
日本も貧しかった。
だから精一杯とはいっても、過分の手当をするまではできない相談でした。
それでも国は、お亡くなりになった軍人さんのみならず、傷痍軍人となられた方々にも、しっかりと恩給を祓い続けていたのです。
終戦後に日本に入ってきたGHQは、米国の流儀に従って、日本の旧軍人遺族や傷痍軍人への恩給の支給を取りやめました。
これが復活したのは、昭和27年に日本が主権を回復してからのことです。
乃木大将を悪く言う人がいます。
けれど、乃木大将もまた、その時代を必死で生きた人物であられたのです。
そして乃木大将は、とうの昔にお亡くなりになられた方です。
亡くなられた方の悪口を言うことは、卑怯な振る舞いです。
そんな卑怯者が、一人前の人間ズラして、一丁前の口をきくこと自体が、あってはならないことだと思います。
人は、人の形をしていれば人なのではありません。
人の心を持って、はじめて人になるのです。
そういう教育が再びしっかりと行うことができる。
そういう国を私たちは取り戻していかなければなりません。
※この記事は、2011年8月のねずブロ記事の13年ぶりのリニューアル再掲です。
人は、人の姿をしているから人 なのではなく、人の心を持って、はじめて人となる。
ねず先生のお言葉、深く深く心に染み入りました。