いわゆるディスりというのは、あまり好きではないのですが、ここまでくると、もう笑うしかないということのひとつが、「大化の改新はなかった」という近年の大学のセンセイ方の珍説です。
こうなると、そのような説を唱える人は、もはや日本人かどうかが疑わしいというだけでなく、人なのかどうかさえも疑いたくなります。
いわゆる「ヒトモドキ」というやつなのかもしれません。
そんなヒトモドキが、一人前の教育者顔をしているのですから、受験生と予備校の先生以外のすべての日本人から日本の大学が見放されるのもうなづけます。

「なかった」としてる理由は、
1 日本人が漢字を用いるようになったのは670年ごろのことである。
2 したがって、それより25年も前の645年に、このような凄みのある改革が日本人にできるはずがない。
です。
大爆笑です。

要するに日本の文明は、中国から朝鮮半島を経由したもたらされたものであるという認識の上に我が国の歴史を語ろうとする「無理」が、結果としてこのようなトンデモ説を生んでいます。
これがトンデモ説だということは、日本が一世紀の中頃には、すでに後漢に使いを送り、その使いのことが後漢書にはっきりと書かれていることからも明らかです。
後漢書によれば、日本からの使いは、自ら太夫と称し、金印を受け取ったとあります。
有名な「漢倭奴国王」の金印です。

印鑑は、昔も今も文書に押すものです。
文字文化がなければ、金印は無用の長物です。

しかもこれが金印であることにも注意が必要です。
中国王朝には、印に種類があって象牙印が最高で、これは中国皇帝のみが用いることができます。
その下に、オリンピックと同じ金・銀・銅の種類の三種類の印があります。
金印は中国と対等な大国にのみ与えられる印です。
銀印は、それに継ぐ国、
銅印は別名泥印とも呼ばれ、中華からみたときに、とるにたらない小国の王に与える印です。

朝鮮半島の歴代王朝に与えられた印は、すべて泥印です。
泥印しかもらえない国が、金印国に文明を授けたのでしょうか。
もし一世紀の日本が半島以下の文明と国力しか持たなかったのなら、日本も泥印だったはずです。
ところが日本には、金印が与えられているのです。
ということは、当時の日本は、漢の大帝国からみても、対等といえる超大国であったということです。
そして当然のことながら、文字も縦横に使い、外国語である漢文にも通じていたからこそ、日本に金印が与えられているのです。

歴史は科学です。
そして科学は、事実を論理的かつ合理的に積み上げたものです。
科学は嘘を付きません。
事実を論理的かつ合理的に考えていけば、朝鮮半島経由で日本に文明がもたらされたということは、まったくありえないことなのです。

つまり日本は、大化の改新よりも六百年も昔から、国語のみならず漢語も使いこなしていたのです。
だからこそ中国との交易や使節の往来も可能だったのです。

仏教の伝来は、この金印から4百年も後のことですが、これは当時日本に対する朝貢国(日本の属国)であった百済の王が、日本に仏僧と仏像と仏典を贈ったというものです。
常識的に考えて、朝貢国が宗主国に何らかの贈り物をする場合、それなりの国力のある国であれば、宗主国が喜んでくれそうな自国の産物を送ります。
ところが百済が送ったのは、他国の唐の仏教の経典であり、僧侶であり、仏像でした。
このことが意味することは明白です。
百済には日本以上の産物がなく、唐の国の仏典を日本に贈るしかなかったということです。
つまり、百済よりも日本のほうが進んだ文化を持っていたということです。

この仏教公伝の理由もまたふるっています。
公式な記録として残っている事実ですが、当時朝鮮半島の南部は日本の直轄領だったのです。
その直轄領を、百済の王が、日本の政府の高官である大伴金村に賄賂を贈って、自国の領土に組み入れてしまうのです。

第一にこれに猛反発したのが、百済に組み入れられた伽羅地方の民衆でした。
伽羅の民衆はこれを不服として、その後100年間に渡って百済への税の支払いを拒み、日本に税を収め続けたのです。
つまり百済の国力は、伽羅地方の民衆の力にさえも及ばなかったということです。
ちなみに百年後にどうなったのかというと、百済が滅んでなくなってしまいました。

第二に、賄賂によって宗主国の土地を勝手に手に入れたということについて、当時の天皇が激怒されるのです。
さりとて、当時の最大勢力の豪族である大伴氏を切るわけにもいかない。
そこで大伴金村と百済の王が、考えに考えた末、天皇に唐の国の仏教の経典と仏僧と仏像をプレゼントするのです。
なんとか天皇の怒りをなだめようとする、これは苦肉の策であったわけです。

これにより百済はもとの朝貢国の地位に戻ります。
ちなみにこの時代、朝貢国の王は、宗主国の王に跡継ぎの王子を人質として贈ることとされていました。
これは、万一、その国の王が裏切ったとき、跡取りの王子を殺害することで、その国は未来をなくす、という仕組みです。

一方、人質となった王子は、宗主国で育ち、宗主国の娘を嫁に迎えて子を生みます。
子は、朝貢国と宗主国のあいの子ですから、これが幾世代か行われると、事実上、その国の王は宗主国の血をより濃く持つことになります。
こうして国と国が一体化していくということが古代においては行われていたのです。

ちなみにこの仕組みは、おそらく大国主神などの時代から広く行われていた仕組みであろうと思われます。
日本全国には諸国があり、かつてはそれぞれの国が独立国であったものが、いつしか日本列島全体を天下とする統一国家が形成されていったわけです。
その際に用いられたのが、各国との血の交わりであったのであろうとされています。

というわけで、仏教の経典を贈ってもらって日本が喜んだということは、すでにその時代には日本は漢字を縦横に読みこなす力があったということです。
そしてその力は、半島から授かったのではありません。

現在考古学的にわかっているところでは、
1 種子島の広田遺跡から出土した貝札は、これは二世紀のものですけれど、そこにはくっきりと「山」という字が墨書されています。
2 韓国のいちばん南側にある慶尚南道(けいしょうなんどう)は、古代においては日本の領土であった地域ですが、そこにある茶戸里遺跡(ちゃどりいせき)からは、木片に文字を書くための筆と削刀が多数出土しています。これは紀元前1世紀のものです。文字がなければ筆も削刀も不要です。
つまり、巷間言われている六世紀に文字が渡来したという説自体が、そもそもかなり疑わしいものなのです。

さらに日本には、漢字に訓読みがあります。
これはもともと、かなり進んだ文化性を持つ「かな文字」文化が日本に定着していて、あとから漢字を輸入したこと以外に、理由が成り立ちません。
そもそも漢字に、その国の言語である訓読みを与えている国は、日本しかないのです。

仏教の経典の場合は、実はこれとは逆の流れです。
漢字で書かれた仏教の経典というのは、もともと梵字で書かれていたものを、鳩摩羅什がもとの言語の「音をそのままに」、意味と音が共通する漢字で書き写したものです。

こうしたことは、古代においてはよく行われたことで、おそらく、君が代の音律が、そのままヘブライ語でも読めるといったことも、これと同系統の事柄であろうと思われます。

ちなみに日本語の五十音は、五十音のひとつひとつが意味を持つ音で、これを一字一音一義と言います。
一音ごとに意味があり、一音ごとが神様のお名前です。
だから我々日本人は、かなのことを「神名(かな)」と呼びます。

おもしろいことに、そのかなの一音毎の意味は、ほぼ万国共通です。
たとえば英語の一人称は「I(アイ)」ですが、大和言葉で「あ」は広大無辺な時空間、「い」は伝える意思を意味します。
英語は構文上「I」を多用しますが、それは広大無辺な時空間、伝えたい様々な思いを、伝えたいということから、多用されているというわけです。

同様に「Love(らぶ)」の「ら」は場を示し、「ふ」は増えること、つまりこの場で子を作りましょうという意味がもともとの「らぶ」の意味だといったという、楽しい話もあります。
楽しいというのは、本当かどうかはわからないけれど、そう考えると、世界中の言語がもとはひとつだったのではないかといった想像が働いて楽しいよね、といった意味です。

さて、大化の改新というのは簡単におさらいすると、中大兄王子(天智天皇)と中臣鎌足が、権勢を誇っていた蘇我入鹿、蝦夷(えみし)親子を誅殺した(乙巳の変)のあと、直後に即位した孝徳天皇の御名によって発布された一連の改革の詔(みことのり)のことを言います。

その改革内容の主なものは、
1 公地公民制
2 令制国の実施
3 戸籍と課税台帳の作成
4 税制改革(租・庸・調)
であったとは、学校の歴史の授業で習うことです。

そしてこの中の最大のポイントが公地公民です。
公地公民というのは、
「国内の全ての土地は天皇の土地であり、
 国内の全ての民は天皇の民である」
という規定です。

ここで問題なのが、天皇の位置づけです。
大化の改新では、天皇を国家最高の権力者としていないのです。

このことは世界の常識とは異なります。
なぜなら世界では、王は、神の代理人であり、地上における神として国家の全ての土地、財産、民衆を私的に支配する国家最高の神の代理人であり、最高の政治権力者であり、国のすべての所有者です。

ところが日本では、天皇は神々の代理人であるけれど、政治権力者ではありません。
天の下は神々の所有物であり、天皇はその神々と直接繋がられる国家最高権威です。
そして政治権力は、その天皇の部下が担うとされました。

このことは実に合理的な仕組みといえます。
なぜなら、政治権力の行使には、常に責任が伴うからです。
責任なき権力が、暴君しか生まないことは、世界の歴史が証明していることです。
そして同時に、神に責任を問う人はいません。
ということは、神は政治権力者にはなりえないということです。

神に祈る人も同じです。
仮に政治家が、国を思うように動かすために、神官に神への祈りを依頼したとします。
結果が、当該政治家の政治が大失敗であったとき、その罪は神官にあるのでしょうか。
罪が神官にあるのなら、神官は神々の代理人ですから、本人である神に罪があることになります。
政治権力は、神に責任を押し付けるのでしょうか。

このように考えれば、政治責任は、あくまで政治家が負うべきものとした我が国の7世紀の大化の改新が、世界の政治史を、1400年も先取りした、たいへんなシステムであったことがわかります。
それが公地公民です。

さらに天皇は、民衆を「おおみたから」とします。
このように規定することで、天皇直下にある政治権力者たちの仕事は、天皇の「おほみたから」たちが、常に豊かに安全に安心して豊かに暮らせるようにすることが仕事となります。

安倍晴明といえば、陰陽師で有名ですが、安倍晴明は朝廷の陰陽寮の長官ではありません。
陰陽寮に所属する一介の陰陽師です。
その安倍晴明の年収は、現代の相場に換算すると年間5億円ほどあったといいます。
年収5億円です。
さぞかし良い暮らしができるであろうと思うのは、現代日本人の錯覚です。
実際には、5億円分のお米を算出する土地の管理を委ねられていたのです。
その土地のことを荘園といいますが、その荘園が、凶作等の事態になったとき、その荘園の人々を養うのは安倍晴明の役割とされました。
ですから数年続きの凶作ともなれば、贅沢どころか借金まみれになって、荘園の人たちを養わなければならなかったのです。

この仕組みをより強化充実させるために整備されたのが、戸籍と課税台帳です。
日本の地名は、その多くが漢字二文字、苗字も多くは漢字二文字となっていますが、これはこのときに戸籍と課税台帳を整備するために、中大兄皇子が地名を漢字二文字で書き表すようにと御触れをしたことに由来します。

いまでは、地名には漢字一文字や、三文字で書き表す地名や苗字がありますけれど、それらの多くは、大化の改新以降に、なんらかの事情で異なる文字数になったものです。
したがって「大化の改新はなかった」と主張している学者さんの苗字も、漢字二文字であるということは、まさしく「大化の改新があった」から、漢字二文字の苗字になっているわけです。
住んでいる土地の名前も、漢字二文字で書き表されているのです。

さて、大化の改新のはじまりにあたる乙巳の変(おつみのへん)についても、多くの教科書などが「天皇を中心とする中央集権国家の建設を目指した中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が起こしたクーデター」と説明しています。
これまた「本当に学校の教科書なの?」と疑いたくなるような不思議な記述です。

クーデターというのは世界中どこでも、
「身分の低い者が、
 身分の高い権力者を打ち倒して、
 その地位に就くこと」
をいいます。

ところが「乙巳の変」では、蘇我入鹿は朝廷における役席者でもなんでもありません。
いわば一民間人でありながら大金持ちで、天皇の親任も受けずに勝手に職位を自称し、天皇の地位や権威までをも脅かす存在となっていた人物です。
このことが異常事態であることは、たとえば会社において部長の辞令も出ていないのに、誰かが勝手に部長を自称して職務を壟断することを想像したらおわかりいただけようかと思います。
これを天皇の皇子(みこ)である中大兄皇子が誅殺したのです。

つまり「乙巳の変」は、正当な身分を持つ位の高い者が、身分が低いのに権力を横取りしようとした者を倒した事件です。
これは「懲罰行為」であって、「クーデター」ではありません。

そして大事なこと。
「大化の改新」は、「新たに改めた」と書かれています。
それがいつのことかといえば西暦645年です。
この年、日本は初めての元号を「大化」と制定しました。

独自の元号を名乗るということは、我が国が自立自尊の国家として中華文明と決別するという明確な意志を表します。
「大化の改新」の「大化」にある「化」は、人が立ち姿で身をかがめた姿を言います。群臣百卿が、全員揃って天皇の前に身を大きくかがめる。
これが我が国最初の元号です。

「改新」の「改」は、古いものを叩いて新しく蘇生させる際に用いる字です。
もともと日本は天皇のシラス国です。
ですからその状態を「新たに元に戻す」というのが「改新」の意味です。

つまり大化の改新は、
「天皇を中心とする中央集権国家の建設を目指した」
のではなく、
「天皇を中心とするシラス国の復活をした」
のです。

その証拠は、大化の改新の翌年に打ち出された改新の基本方針の中に明確に書かれています。

1 公地・公民とし、豪族が私的に私有していた土地や民衆を天皇の直轄に戻す。
2 そのために班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)によって戸籍と、土地の登記簿をつくる。
3 全国を国と郡ぐんに分ける。
4 租庸調(そようちょう)による税制を引き、国が税を直接取り立てる。

要するに、大化の改新は、「戻」しているのです。
新たに「始」めているのではないのです。

大化の改新は孝徳天皇の時代に行われたことですが、すべてを成し遂げたあと、これを推進した中大兄皇子は、孝徳天皇から数えて二代後に天智天皇となられています。
つまり天智天皇は、皇太子殿下のときに大化の改新を断行し、それが一段落してから、政治の上の機構である天皇となられたわけです。
その天智天皇の御製が、実は百人一首の一番歌になっています。

 秋の田のかりほの庵の苫をあらみ
 わが衣手は露にぬれつつ

この御製は、天智天皇が、天皇自らが農事に精を出されているお姿を詠まれた御製です。
君民一体となって、みんなが豊かに暮らして行く。
それが日本本来の姿です。

大化の改新不存在説は、こうした日本のもつ凄みから、世間の耳目を逸らそうとする政治的な動きであって、学問ではありません。
私達は、本来の学問を取り戻すべきです。

※この記事は2023年10月のねずブロ記事のリニューアルです。

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