日本の伝統的な政治・文化の在り方、特に天皇制と民衆の位置づけについて、日本の歴史的な国家観や文化の形成過程についての洞察を踏まえて、現代日本が忘れてはいけない事実を述べています。

1. 日本の政治文化における天皇の役割

日本の政治文化において、天皇は国家の最高権威であり、民衆を「おほみたから(大御宝)」として位置づけます。
政治権力者は天皇の部下とされ、民衆が安心して暮らせる環境を整えることが使命です。
他国の多くでは、権力者が民衆を支配する形態が一般的であり、少数の支配者が富を享受する社会構造が長らく続いてきましたが、日本では天皇の存在が異なる権威構造を形成しています。

2. 歴史的背景と西欧との対比

西欧社会は、古代ギリシャからの王と奴隷の関係が基盤となり、植民地時代にはその構造を有色人種国家に押し付けました。一方で、日本はその影響を受けず、独自の文明文化を維持してきました。
推古天皇の時代に確立された体制では、女性が神と繋がり、皇太子である聖徳太子が政治を担いました。
この時代に国家最高権威と政治権力者の役割分担が成立し、日本独自の国家構造が形成されました。

3. 日本における女性と神との関係

日本では、古代より女性が神と繋がる存在とされ、天宇受売命が天の声を受け伝える役割を担ったことがその例です。推古天皇の即位も、神と繋がる女性を天皇とすることで、国の最高権威と神意の伝達が円滑に行われる体制を整えました。
卑弥呼の登場も、神の意を伝える巫女として戦乱を収める役割を果たし、日本文化における女性の神聖性とその役割が深く根付いていることを示しています。

4. 民主主義的要素としての「おほみたから」

日本独自の体制では、民衆の地位が尊重される「究極の民主主義」ともいえる仕組みが築かれました。
民衆は政治権力者よりも上位に位置する天皇によってその地位が保障され、民衆の幸福が国家の目的とされます。

結語

日本は、先祖から受け継いだ知恵である、天皇と民衆の関係、女性と神との関わりを再認識することで、これからの日本が目指すべき「弥勒の世」への道へと向かうことができます。
こうした文化をのこしてくれた先人たちに感謝です。

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日本は古来、天皇が国家最高権威として存在し、一般の民衆を「おほみたから」とする。
政治権力者は、天皇の部下であり、その最大の役割は、天皇の「おほみたから」である民衆が、豊かに安心して安全に暮らすことができるようにしていくという形を持ちます。

この天皇という存在がないと、権力者が民衆を、ただ一方的に支配する関係になります。
この場合、99.9%の民衆が働き、その利益を王侯貴族(政治権力者)が収奪することで、極めて優雅でリッチな生活が実現することになります。これが、日本以外の、世界の一般的な仕組みです。

この場合、いわゆる権力層と一般の民衆層では、王様と奴隷ほどの違いが生まれます。
奴隷というと、何となくムチでしばかれながら、荷物を運んでいる労働者みたいなものをイメージされる方が多いのですが、ギリシャ時代のポリスと呼ばれた都市国家では、同様に人口の99%の人が奴隷層でしたが、その奴隷そうの人たちは、城塞都市の中に住んでいて、家を買うこともできたし、結婚することもできました。もちろん子を作ることもできたし、働いて、それなりの賃金をもらうこともできました。
その意味では、現代の世界における一般の庶民が、普通に家やクルマを買ったり結婚したりしている姿と、実は何ら変わりはないのです。

そして同様に、1%の人たちが、全体で得られたGDPの概ね半分を全部フトコロに入れているのも、現代と変わりません。これがヨーロッパ社会の姿であり、またアメリカ社会の姿であり、今の世界の姿といえます。
ギリシャ時代から、変わっていないのです。

ではどうしてそれが世界の姿になっているのかといえば、そうやって成立してきた西欧社会が、のちに有色人種の国を、まるごと支配したことによります。そこでは西欧の仕組みが導入され、現地の人たちは、ひたすら収奪の対象になりました。
つまり、ギリシャ以来の、王様と奴隷の関係です。

結局、植民地支配されなかった日本だけが唯一、上古の昔から続く(世界と異なる)文明文化を、いまなお保ち続けているのです。

もっとも、現代日本では、1億2000万人の人口のうち、おおむねそういったものに目覚めつつあるというのが1000万人ぐらいで、他はすっかり欧米の文化に染まってしまっています。

冒頭に申し上げました古来からある日本の形が、いつから始まったのかというと、第33代推古天皇の時代です。
推古天皇は、初の女性天皇です。
神と直接つながられる女性が天皇となり、その下で皇太子である聖徳太子が摂政として政治権力を行使されました。
これによって、国家最高権威としての天皇、その下にある政治権力者という国の形が確定しています。
そしてこの形が生まれることによって、天皇の「おほみたから」である民衆が、豊かに安心して安全に暮らすことができようにしていくことが、国家最高権威である天皇の部下である政治権力者の使命であり、存在理由となったのです。

では、第33代推古天皇よりも前の時代はどうだったのかというと、実は天皇は、当時は「大王」と書いて「おほきみ」と呼ばれていたのですが、まさに「大王」が政治権力を直接振るう存在でした。
このことはたとえば、第16代仁徳天皇の「民のかまどの煙」の逸話や、初代神武天皇がお米を中心とした相互互助国家として日本を建国されたことなどにも象徴されています。

けれど、国家最高権力者であるためには、その権力の由来が必ず必要になります。
「どうして国家最高の存在なのか」という、裏付けのための理由です。
そのひとつが、もちろん天照大御神様からの男子直系であるということなのですが、もうひとつ、日々の指示にも、裏付けが必要です。
そしてその日々の指示の裏付けが、実は、推古天皇の前の天皇の時代まで、大王の妻、つまり「大后(おほきさき)」が、夜明け前に神とつながって御神託をいただく、という形でした。

夜が明ける前、まだお天道様が昇っていない時間帯に、大后(おほきさき)が神に祈りを捧げ、神と繋がって御神託を得ます。そして「今日はこのような御神託がございました」と、その内容を「大王(おほきみ)」に伝え、「大王」は、その御神託に基づいて、その日の政務を取られる。そのような形で統治が行われてきたのです。

どうしてそのように言えるのか、不思議に思われる方もおいでになられようかと思いますが、実はこの「夜明け前と夜明け後」の役割分担について、第1回遣隋使のときの倭国からの使者の言葉として『隋書』に書かれているのです。

『隋書』では、倭王アメタラシヒコの使者が隋の楊堅帝の前で、「倭国では夜明け前に兄が政治を聴き、夜が明けると仕事を止めて、政治を弟に譲る」と述べたとあります。
楊堅帝は、「それは政治の在り方が道理に外れているから改めるよう訓示した」などと『隋書』には書かれているのですが、『隋書』というのは、隋の国の側の役人が、話を聞いて書き留めているわけです。
その可能性を考えて、倭国の使者の言葉を読むと、まるで違ったことが話されていたとわかります。

つまり「倭国では夜明け前に先に神々から政治を聴き」、「夜が明けると、御神託事項を『夫』伝え、『夫』が夜明けとともに朝廷を開いて政治を行う」となるのです。

大和言葉で「おと」は、「弟」でもあり、「夫」でもあります。
同様に、妻のことは、「妹(いも)」と呼びます。
妻が妹、夫が弟です。
結婚して神々の前で婚礼を儀を行った以上、魂が結ばれているのですから、それは血縁者として身が結ばれている兄弟姉妹と同じだという意味です。

そこでたとえば、水害対策のために堤防工事を行おうというのは、これは政治的意思決定です。
けれど、その政治的意思決定が、神々の意に沿ったものでなければなりません。
だから、先に、神と直接繋がることができる女性の「大后(おほきさき)」が、神と繋がって、御神託をいただいていたのです。

これが、推古天皇の時代には、神と繋がる女性が天皇の地位に就かれたわけですから、夜が明けてからの政務は、皇太子である聖徳太子が、摂政となって政務を摂ったということです。
そもそも「摂政」という字は、「政務を摂る」という意味の用語です。

大后のことを、昔は「妃」とも呼んでいます。
この「妃」という漢字は、実は女性の巫女さんを表す漢字です。

女性の巫女さんの役割は、神と繋がって神のお告を聞くことです。
なぜこれが女性でなければならないのかというと、我が国の最初の「神様から直接お話を伺う役割」を担ったのが、天宇受売命です。
天宇受売命は、読んで字のごとく、天の声を受けてみんなに伝える役割、あるいはみんなの声を受けて天に伝える役割です。

その天宇受売命を、身近な妻として独占することができたら、その人は(言葉は悪いですが)神の意思を操ることができます。
つまり、国家最高権力者となることができるのです。
そういうことで、皇后陛下が神々と直接繋がり、そして神々の御意向を大王に伝える役割を担ったのです。

ところが第32代崇峻天皇が、蘇我氏によって暗殺されるという事件が起こり、こうなると誰も次の天皇になりたがらない。
そこで苦肉の策として、大后(おほきさき)を天皇とすることにしました。
女性は神と繋がる役割ですから、これは殺せないというわけです。

こうして、国家最高権威としての天皇、国会最高権力者としての太政大臣といった仕組みが始まるのです。

この仕組みの成立によって、何が一番変わったのかというと、民衆の地位です。
民衆が、天皇の「おほみたから」とされることになった。

この形というのは、民衆が最も尊重されるという意味で、「究極の民主主義」といえる仕組みです。
民衆の地位は、政治権力者よりも上位におわす、天皇という御存在によって保障されているからです。

そしてこうした知恵が生まれた背景にあるのが、我が国では古来、「女性だけが神々と繋がることができる」とされてきた、その文化にあります。

このことを象徴しているのが卑弥呼です。
卑弥呼は魏志倭人伝に登場しますが、その時代、2世紀のことですが、「倭国大乱」といいまして、国内で王様同士がお互いにものすごく対立し、いわば戦国時代の様相を呈したことがあったのです。
このときに、王様たちが、みんなで1人の女性をリーダーに立てた。
それが卑弥呼で、卑弥呼が立つと、大乱がまたたくまにおさまったと書かれています。

卑弥呼は、どうみても、これは「比売巫女(ひめみこ)」ですが、ではどうして巫女さんが立ったら、王たちが戦争を終わらせたのかといえば、その時代よりもはるか昔から、女性の巫女さんが、神の意思を伝える役割だという共通認識があったとしか言いようがないわけです。

どんなに強力な政治権力を持った人であっても、比売巫女の言うことは聞かなければ、たいへんな神罰が下る。
これは怖いです。
それで戦乱がおさまるのです。

そしてこのような思考と行動は、10年20年の文化では絶対に成立しません。
何千年も、あるいはもしかしたら万年の単位で続く基本的な文化であるからこそ、成立することです。
そうでなければ、感情的なもつれだけでなく、実害まで生じている戦いを、女性一人がリーダーになったからといって、そうそう簡単におさまるはずなどないからです。

このように考えていきますと、我が国の歴史において、女性が果たしてきた役割というのは実に大きい。
そして我々日本人が、この日本文化をしっかりと取り戻したとき、日本は大きく変わり、発展し、魅力を増すのではないでしょうか。

私たちは、本当に先祖代々のすごい知恵をいただいています。
素晴らしい国に生まれさせていただいているのです。
そこには感謝しかありません。