幸徳事件は、明治天皇暗殺計画容疑で社会主義者ら12名が処刑された冤罪事件とされますが、事件の背景や当時の社会情勢、そしてその後の評価を考えると・・・・。

  1. 幸徳事件の概要と背景

     事件の発端
     1910年、長野県の機械工・宮下太吉が明治天皇暗殺計画を立案し、爆弾製造に関与。
     これが幸徳事件の発端となりました。  社会主義者の弾圧
     この事件をきっかけに、多数の社会主義者や無政府主義者が逮捕されました。
     特に幸徳秋水を含む12名が死刑判決を受け、1911年1月24日に執行されました。  法制度と処刑の厳しさ
     当時の刑法では天皇や皇室への危害を加えようとしただけで死刑が科されました。
     この事件はその適用の初例となりました。

     戦後評価と「冤罪」の主張  戦後学者の評価
     戦後、左翼系学者はこの事件を「政府による弾圧」と位置づけ、
     幸徳秋水を思想的殉教者として高く評価しました。  幸徳秋水の人物像
     高知県の商家の出身の幸徳秋水は、中江兆民の門下生として自由民権運動に関与。
     「萬朝報」というゴシップ新聞の記者であった人物でした。  事件の真相
     一部では政府や警察による「でっち上げ」との主張がありますが、
     そもそもこれらは、いわゆる「論点ずらし」でしかありません。
     私達が事件から學ぶべきことは、他にあります。

     明治天皇と皇統を巡る議論  皇統の正統性問題
     明治時代、天皇の正統性を巡って議論する人たちが現れました。
     幸徳事件をきっかけに皇室の威厳を損なう報道や主張が行われました。  三種の神器と日本文化の秘密
     日本には縄文以来の「大切なものは隠す」という文化があります。
     南朝正統説、北朝正統説等は、皇室の象徴である三種の神器の保有を議論のネタにしますが、
     そもそもご皇室に置かれているのは、常にレプリカです。

2「大切なものは隠す」

 南朝北朝の議論は、皇統の正統性を主張するものですが、本来我が国の天皇の権威は、
 「天照大御神の直系の霊(ひ)を受け継ぐ者」という一点に凝縮されます。
 これが「男系」です。
 そして日本人の3分の2は、天皇の末裔であり、そのうちのすくなくとも半分は男系男子です。
 その中で、誰を国家最高権威としての天皇にすべきかは、ご皇室の内部で決めるべきものであって、
 国民が口を挟むべきものではありません。

3 皇統の正統性に関する議論

 そもそも皇統については、
 1 民間が口出しすることではありません。
 2 男系男子はゴマンといますが、三種の神器を受け継がれる方が天皇です。
 3 日本の文化は「隠す文化」です。
   天照大御神から授かった三種の神器の現物は、それぞれの場所に大切に保管され、
   皇室に置かれるのは時代を通じてレプリカです。

三種の神器は、安徳天皇の時代に紛失したとか、南北朝時代に吉野や大覚寺に行ったり来たりしたといいますが、それらはレプリカであって実物ではありません。
逆に言えば、そのレプリカの所在を巡って、一般人が正統性云々を言うのは、そもそもご不敬です。

水戸光圀公は、大日本史で南朝正統説を唱えたと言いますが、
それはあくまで「南朝もまた正統な皇統である」という趣旨のことで、
このことを理由に、「どちらが」正統かを議論することは、光圀公からみても、
議論すること自体に、おそらくたいへんにお怒りであろうと思います。

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