1943年、アッツ島で玉砕した日本軍守備隊の戦いと、山崎保代陸軍中将の勇気ある決断を通して、「日本人としての誇り」とは何かを見つめ直します。今を生きる私たちに残された問いを深く考えます。
◉ アッツ島玉砕──誤報から始まった「ご縁のライブ」
当初は日付の誤認から始まった本ライブ。しかし、それもまた「何かのご縁」と捉え、昭和18年5月29日に玉砕したアッツ島の英霊たちへの感謝と敬意を込めて語られました。アッツ島はアリューシャン列島の一部で、当時米国領だったこの島に日本軍が進出したことで、米国側は「必ず奪還しなければならない領土」と位置付けました。
◉ 圧倒的戦力差の中で──山崎保代陸軍中将の冷静な戦略
2650名の守備隊の大半は土木作業員。純粋な戦闘員は半数以下。対して米軍は1万1000名超の大部隊と大艦隊。山崎保代陸軍中将は水際防衛を避け、敵を内陸に誘い込んでから戦うという合理的かつ未来を見据えた戦術を選びました。これは後の硫黄島と同じく、少人数でも持久戦に持ち込むための決断でした。
◉ 最後の突撃と「生の炎」──誇り高き死の意味
5月29日、山崎中将は重傷者を含む150名を率いて最後の玉砕突撃を敢行。左手に日の丸、右手に軍刀を持ち、先頭で斜面を駆け上がる姿は、米軍の記録にも「鬼神のようだった」と残されています。その遺体は最前列に倒れていたとされ、最期まで部下を導き続けたその姿は、日本人としての精神の象徴と言えます。
また、軍医・竹口伸夫少尉の遺した日記には、家族への愛と、命を投げ出してまで守ったものへの祈りが綴られています。
「ただし何らの未緩なし。天皇陛下万歳。生死を賜りて精神の平壌になれば我が喜びとする」──その言葉は、現代人の心にも重く響きます。
◉ 陛下の涙、国の姿──瀬島龍三氏が語った真実
元大本営参謀・瀬島龍三氏の証言では、玉砕の報を受けた昭和天皇が「守備隊は最後までよく戦った」とお言葉を発せられたと伝えられています。陛下のその御言葉に、杉山元帥も瀬島氏も涙したといいます。国と民を結ぶ絆(きずな)が、そこには厳然として存在していました。
◉ なぜ、そこまでして戦ったのか?──“誇り”を現代に問う
西洋の傭兵文化では「勝ち目がなければ撤退」が当たり前でした。しかし、アッツ島守備隊は白旗を掲げることなく、最後まで命を賭けて戦いました。なぜでしょうか? それは「家族を守るため」「祖国を汚さないため」「日本人であることの矜持」があったからではないか──。
現代に生きる私たちは、この問いにどう答えられるでしょうか?
