「知国」という字を見た人が、「しらすくに」と読めるようになったときこそ、日本が神々の国に帰ったときだと思っています。

先日、ある雑誌社からの取材を受けたのですが、そのとき編集部の方がおっしゃられたことが、すこし興味深かったです。
その雑誌では、何号か前までは、ChinaやKoreaの問題を専門によく扱ったのだそうです。
簡単にいえば、特亜三国と在日コリアンの悪口です。
すると雑誌が飛ぶようによく売れたのだそうです。
ところが、この数ヶ月、明らかに市場の様子が変化してきていて、そういう記事では雑誌の売行きが伸び悩むようになってきたのだそうです。

特亜在日の問題は、またたく間に常識化してしまったのです。
そこに意外性はまったくない。
だから、いまさらそういう話を聞いても、そういう悪口にばかり興味を示す特殊な人たちは別として、一般の読者は、簡単に言ったら、そこを卒業してしまったというのです。

だから「読者は次の展開を求めている」のだそうです。

それが、では「日本とは何か」、私たち日本人にとって日本人とはどのような民族なのか、これからどうしていけばよいのか、日本人の本質にある事柄は何なのか。
そういうことなのではないだろうかと、その編集部の方はおっしゃられました。

日本人は本来ポジティブなのです。
明るくて前向きなことが好きです。
他人の悪口よりも、どうしたら良さを得ることができるかが好きです。

おそらくいま、もしくはこれからの日本で、もっとも求められていくのが、古来からある日本的価値観と、その価値観の根幹にある本質なのではないかと思います。
そして私は、その答えは古事記に書かれた「知国(しらすくに)」であると思っています。

ところが残念なことに、この「知国」という言葉は、戦前戦中までは常識語だったのに、現代日本ではすっかり忘れ去られた死語になっています。

たとえば戦前ですと、誰でも習った大日本帝国憲法の第一条は、「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治(すめらひ、しら)す」と習いました。
「統治」と書いて「すめらひしらす」と読んだのです。

すると生徒たちは、当然「すめらう」って何?、「しらす」って何?となりますから、ここから「天皇が神々と通じて臣民を大御宝とする」という知国の国柄が生徒たちに明確に説明されたわけです。
ですから戦前戦中派にとって、「シラス」は常識語でした。

ところが戦後は、大日本帝国憲法を習わないし、習っても「これを統治す」を「とうち」と読むように教えられます。
すると天皇があたかも西欧やChinaの絶対君主であるかのように生徒たちは誤った誘導をされ、そのうえで「戦後の日本国憲法は、天皇は国民統合の象徴となり、民主主義の素晴らしい世の中が誕生したのですよ」と教えられます。

まさにGHQの敷いたWGIP(War Guilt Information Program)の思想統制による日本人への錯誤誘導が、日本が主権を回復したとされる昭和27年からすでに64年を経過した今日においても、いまだに行われ続けているわけです。

少し考えたらわかることですが、その民主主義によって選ばれた大統領が、原爆投下の決裁をしているわけです。
戦時中であり、敵国であるならば、何十万人もの、軍人ではない民間人を一度に殺害しても良いなどということを、果たして神々は選択するでしょうか。
あるいは神はお許しになるのでしょうか。

戦時中であるならば、戦いのプロである軍人同士が戦うことは、これは致し方無いことかもしれません。
たとえは適切でないかもしれませんが、双方とも軍服を着て銃を携行し、戦場というリングの上で、まさに死闘を繰り広げるわけです。
日頃から訓練を重ねた者同士が正々堂々と戦う。これは許容範囲内かもしれません。
しかし、訓練もない、軍服を来ているわけでもない、銃さえ持っていない一般人を、まとめて何十万人も殺して良いなどということは、これは誰がどう考えても、あってはならないことです。

もちろん神々ならば、それをされることがあるかもしれません。
大地震や疫病などによって、神々は何十万もの人の命を奪うことがあるし、堕落したソドムやゴモラは、神の炎を用いて一瞬で町を焼きつくされました。
けれど、それは神の所業であって、人のすべきことではありません。

ところが民主主義と言いながら、大統領に就任するに際しては、司教から神の名において祝福を与えられ、就任したその瞬間から、その「人」は、神の代理人となるのです。
神の代理人ということは、神としての権威を持ち、神の権力の行使できる立場になるということです。
つまり、何十万人の人を殺すという選択も、神の意思を代理して行うことができると考えられるのです。

これは中世ヨーロッパの魔女狩りも同じです。
魔女として疑いのある女性に対しては、神の名において何をしても許される。
それによって、果たしてどれだけ多くの女性が、意味なく殺されたことでしょうか。

米国が原爆を開発していたとき、日本でも同じ原爆の開発が進められていました。
日本では、その爆弾のことを新型爆弾と読んでいました。
軍がこの新型爆弾をもって米国に乾坤一擲の大勝負を挑みたいと昭和天皇に奏上したとき、昭和天皇は次のように述べられました。
「その新型爆弾によって、
 たとえ我が国の戦況が有利になることがあったとしても、
 そのために、相互が新型爆弾の投下合戦にいたり、
 結果、何百万もの無辜の民が死ぬようなことになるとしたら、
 私はご先祖に申し訳がたたない。」
そして昭和天皇は、原爆の製造自体を即座に却下されただけでなく、その開発の中止までをも命じられています。

「何百万もの無辜の民が死ぬようなことになるとしたらご先祖に申し訳がたたない」との先帝のお言葉は、先帝が、歴代天皇に申し訳がたたないとおっしゃられているだけでなく、天皇のご先祖は、天照大御神にまでさかのぼられるわけです。
そしてその天照大御神は、天之御中主大神にはじまる創世の神々の諸命以(もろもろのみこともちて)、ご降臨されたイサナキの大神から、創世の神々の名のもとに知国を命ぜられて高天原の最高神となられ、その最高神の天孫が天皇のお血筋になるわけです。

そして「知国」というのは、神々に通じ、神々の命(みこと)を持って、神々の隨(まにま)に国を統治することを言います。
つまり、天皇は、天皇の祖先である神々に通じる存在です。
昭和天皇の「ご先祖に申し訳がたたない」とのお言葉は、そのまま「神々に申し訳がたたない」と述べられているわけです。

民衆によって選ばれたからと、神々のご意思を代理していると思い込み、何十万の民衆を殺す「民主的大統領」と、神々の隨(まにま)に、人間界の一時的な敵味方を超えてすべての民を慈しむ天皇では、極めて大きな違いがそこにあるのです。

私は、「知国」という字を見た人が、誰一人これを「ちこく」と読むのではなく、みんながこれを「しらすくに」と読めるようになったときこそ、日本が神々の国に帰ったときだと思っています。