1657年、江戸を襲った明暦の大火は、10万人以上の命を奪う大災害でした。その原因には、一着の振袖に秘められた若い娘たちの慕情と滅ぼされた一族の恨みが絡み、歴史に因縁話として刻まれました。
- 振袖に秘められた因縁と悲劇の始まり
明暦3年1月18日(1657年3月2日)、巣鴨の本妙寺で起こった火災が、江戸全土を焼き尽くす明暦の大火へとつながりました。その発端となったのは、麻布の質屋の娘・梅乃が本妙寺で出会った小姓に一目惚れし、彼が着ていた模様を模倣した振袖を作らせたこと。この振袖は、梅乃の早逝後、他の若い娘たちの手に渡り、不吉な死をもたらしたとされています。
- 江戸を焼き尽くした明暦の大火
振袖を供養するため住職が火中に投じたところ、強風により振袖が燃えたまま本堂に飛び込み、そこから火災が発生しました。当時、江戸は80日間の乾燥状態が続いており、火は瞬く間に広がり、江戸城天守閣を含む広範囲を焼失。10万人以上の死者を出し、後に両国橋の建設などの復興が行われました。
- 因縁話が語る「共有する歴史」の重要性
振袖にまつわる物語は、滅ぼされた土岐氏の怨念と梅乃の慕情が江戸を焼き尽くしたと噂されました。この因縁話は、単なる迷信ではなく、人々が共有する歴史と深く結びついています。歴史を共有することで、現代の私たちも起きた現象の背景を考え、未来への教訓とすることができます。
- 徳川家綱の「仕置き始め」と慈悲の政治
明暦の大火の時代背景には、徳川家綱が幼少期に発した「流罪人の食料」に関する発言もあります。この発言は将軍・家光を感銘させ、以後、罪人に対する配慮が進められました。家綱の慈悲深い統治姿勢は、災害復興にも影響を与えたといわれています。