1913年2月10日、大正政変の中で護憲派の怒りが爆発し、東京で交番が次々と襲撃された。桂太郎内閣は総辞職し、日本の議会政治が大きく変化する契機となる。大正デモクラシーへの道を開いたこの事件の背景とは。

  1. 大正政変の背景—桂太郎内閣と護憲派の対立

1913年(大正2年)、日本の政治は大きな転換期を迎えていました。前年末から始まった第一次憲政擁護運動により、第3次桂内閣は国民の厳しい批判を浴びていました。
当時の政治は、一部の有力者が実権を握る形が続いており、これに反発した護憲派が立ち上がりました。護憲派は、民意を反映した政治の実現を求め、桂内閣の退陣を要求しました。

 尾崎行雄の弾劾演説

2月5日、政友会の尾崎行雄が桂内閣を強く批判する弾劾演説を行い、護憲派の怒りに火をつけました。
尾崎は「桂内閣は天皇の権威を盾にして、政治を私物化している」と主張し、国民の支持を得ました。この演説により、議会周辺には怒りを募らせた群衆が集まり始めました。

  1. 2月10日—護憲派の怒りが爆発

2月10日の朝、数万人の民衆が議事堂を包囲し、桂内閣の即時総辞職を求めました。この日、歴史を動かす決定的な出来事が起こります。

 山本権兵衛 vs. 桂太郎—政権の行方を決する対決

早朝、海軍の実力者である山本権兵衛元海相が桂太郎のもとを訪れました。
海軍は桂内閣の政治手法に不信感を抱いており、山本は桂に対して強い言葉で迫りました。

山本:「幼帝を差し挟んで政権を専らにするとは何事か!」
桂:「私は地位に恋々とするつもりはない。君がやるというなら、代わりにやればどうか」

この言葉の応酬の末、桂は内閣総辞職を決意しました。しかし、この決定が発表される前に、状況は急変します。

 護憲派の民衆が暴徒化

総辞職の発表が遅れたことが原因で、群衆は「また時間稼ぎをする気か」と激怒し、暴徒化しました。
その怒りは、警察署や交番、政権寄りとされた国民新聞社へと向かいました。

交番襲撃—52か所焼失、24か所破壊

東京の各地で交番が襲撃され、
• 52か所が焼失
• 24か所が破壊

という未曾有の事態に発展しました。
事態を重く見た政府は軍隊を出動させ、ようやく暴動を鎮圧しました。

  1. 大正デモクラシーへの道—日本政治の転換点

この事件は、日本の議会政治の転換点となりました。
大正デモクラシーの幕開けを告げる出来事となり、国民の政治意識が高まりました。

 民衆が求めたもの

当時の民衆が求めたのは、「天皇のもとで民衆が主役となる政治」でした。
しかし、実際には一部の有力者が天皇の名を利用し、政治を動かしていたことに怒りを感じていました。
この事件を機に、日本の政治は少しずつ「民意を反映した議会政治」へと進んでいきました。

 日本の未来への教訓

大正政変を振り返ると、日本の政治の形を決めるのは国民の意識であることが分かります。
現代の日本においても、政治のあり方を考え、国民が声を上げることの重要性を改めて認識する必要があります。

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まとめ
 • 1913年2月10日、大正政変が勃発
 • 大日本帝国憲法護憲派の怒りが爆発し、交番52か所焼失、24か所破壊
 • 桂内閣は総辞職し、日本の議会政治は大きく変化
 • 大正デモクラシーの始まりとなった
 • 現代日本においても、政治意識の重要性を再認識するべき

この歴史から、我々は何を学ぶべきか?ぜひコメント欄でご意見をお聞かせください!

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