「いただきます」は、命への感謝と謙虚さを表す祈りの言葉です。その言葉を失うことは、日本の文化と精神を根底から崩すことになります。未来のために、この言葉の意味を今こそ伝えましょう。
◉「いただきます」は日本文化の真髄
「いただきます」という言葉は、日本人にとってごく自然な日常の一言です。しかしその裏には、食材への感謝だけでなく、生産者、料理を作る人、育ててくれた親、命をくれた自然──あらゆる存在への感謝が込められています。この一言に込められた精神は、日本文化の根幹をなす「命の教育」であり、命の循環を受け入れ、感謝し、生きる重さを知り、周囲のすべてに感謝を捧げる言葉なのです。
欧米にも、似た言葉はあります。たとえば「Let’s eat!」です。けれどそれは単に「さあ、食おうぜ」と言っているだけで、そこに日本の「いただきます」のような、命への謙虚と敬意と、食べ物への感謝の意図はありません。日本の「いただきます」は、感謝を表す祈りの言葉です。これにより私たち日本人は、自然や社会とのつながりの中で「生かされている」ことを日々自覚してきたのです。
◉「いただきます禁止」の背景と危うさ
近年、「いただきます」や「ごちそうさま」という言葉が「宗教的な言葉」として、保育園や学校で使用を禁止する動きがあるのだそうです。でも考えてください。「いただきます教団」なる宗教団体など、日本中どこを探したって存在していません。あたりまえです。「いただきます」は宗教ではなく、日本人の生活文化そのものだからです。
生活文化と宗教を履き違えるなど、教育者の名に値しないと、はっきり言わせていただきます。
また、「いただきます」や「ごちそうさま」は、単なるマナーでもありません。命の尊さ、感謝、つながりといった人間としての根幹的な感性をみがくものです。これが教育の場から切り離されてしまうことは、実は日本の文化破壊につながる非常に重大な問題なのです。
なぜなら、感謝の心を失えば、やがて命を奪うことに鈍感になり、命を守るためだけに必死になり、武装し、警戒し合う社会へと変質してしまうからです。
命に感謝し命を守るという社会通念がなければ、人は自分の命を守ることだけに必死になります。そのために、ひとりひとりが銃で武装する。そうしなければ安心して生きていくことができない。
そのような社会環境など、日本人の誰もが望んでいないのではないかと思います。
◉「シラス国」としての日本の精神
そして「いただきます」の文化の背景にあるものは、日本古来の「シラス国」の思想です。「シラス」は民を慈しみ、共に食べ、生きるという統治理念であり、支配ではなく、共生を前提とした精神です。
古代の天皇は「食国(をすくに)」を司る御存在とされ、民衆を「大御宝」として慈しみました。江戸時代の庶民の暮らしにも、「もったいない」という精神が息づき、質素であっても豊かな食卓が存在していました。その豊かさは「命や労力、自然への感謝と敬意」に裏打ちされていたのです。
この精神を象徴するのが「いただきます」です。ということは、この言葉が消えることは、日本の文化と歴史、そして国のあり方そのものが断ち切られることを意味するといえるのです。
◉ 未来のために「いただきます」を伝える
「いただきます」は、単なる習慣ではありません。日々の暮らしの中で、人としての土台を育む大切な言葉です。
この言葉を子どもたち、孫たちへと伝えていくこと──それこそが、未来の日本を守ることです。
「いただきます」が次世代に受け継がれていくならば、日本は永遠に不滅です。
しかしこの言葉が消えれば、日本は日本でなくなってしまいます。
食卓の一膳のご飯に手を合わせる、その一瞬に、命の重さへの感謝と敬意を込めて。
どうか、次の世代にこの美しい習慣を伝えていきましょう。
