選挙の際に教育問題を訴えると票が集まるといわれています。
だからかどうかはわかりませんが、戦後ずっと、いろいろな先生方が教育の改革を訴えてきました。
左の人たちもいろいろ言うし、右の人たちもいろいろ言う。
それで結果がどうなってるかというと、残念ながら日本の教育は悪くなる一方です。
幼年教育もそうですし、中等教育もそうですし、高等教育もそうです。
大学教育に至っては、もう悲惨なもんです。
日本一の最高学府である東大も、戦前は世界的名門校だったけれど、いまではずっかり下位の大学です。
ひとことでいえば日本の教育は、「世の中の役に立たない」。
小学校から大学まで、16年も学校に行くのです。
人生の大事な16年間が、まったく意味をなさない。
大学教育まで受けて、卒業後に社会人になった途端に、それまで教わってきたことが全部、役に立たないのです。
優しさという面においては、ボクらが若かった頃と比べても、昨今の若者はとても優しい。
その意味では、ひとりひとりの若者の人柄は、すごく良くなっているといえます。
けれど、それ自体は、学校教育と何の関係もない。
むしろ極端な言い方をすれば、16年間も意味のない学生生活という我慢を強いられた結果かもしれない。
そこで現代教育の何が問題なのか、幼年教育から中等教育、高等教育、大学教育それぞれに分けて考えてみようと思います。
まず小学校の幼年教育。
まず小学校低学年だからって、子どもたちを舐めてませんか、と言いたい。
鹿児島に非常にハイレベルな教育をしている幼稚園があります。
幼児たちがジャズバンドを作って、ものの見事に演奏をしたりします。
漢字も、すでに小6レベルです。
小学校に上がる前の子供がですよ。
子供の可能性っていうのは大変なものがあります。
特に5歳6歳くらいの子供の記憶力はすごい。
大人が般若心経とか大祓詞を暗記しようと思っても、なかなか苦労するけれど、子供はすぐに暗誦してしまいます。
奈良平安の昔から江戸時代まで我が国の教育の中心にあった童子教や実語教は、全文漢字で書いてあるけれど、子どもたちは、皆、それらを暗誦していました。
そして小学5〜6年生くらいになると、今度はその意味がわかるようになってくる。
こういうことが大切だと思うのです。
こうして育った子どもたちというのは、ものすごく実力が養われます。
実際に寺子屋教育にチャレンジしてる仲間がいるんですけれども、その寺子屋で学んだ子供が書いた感想文があります。
いまどきの高校生や大学生でもこんなすごい文章は書けないだろうと思われるようなすごい文章を書きます。
齋藤武夫先生という小学校の歴史の先生がおいでになられます。
「授業作りジャパン」という本を出しておいでなのですが、その齋藤先生の授業を受けた子どもたちもまた同じです。
ものすごく日本人としての自覚と誇りが育つのです。
だから他の科目の成績もあがる。
当然、子どもたちからも、PTAからも絶大な支持を集めるのだけれど、学校側はそんな齋藤先生の授業を排除しようとします。
どうしてか。
根っこが間違っているのです。
ひとつの科目に興味がわくと、他の科目の成績もあがります。
すべての科目は、相互に連携しているからです。
いくら数学が得意でも、国語力がなければ応用問題は解けません。
誰がどう考えても素晴らしい教育なのに、ではどうして学校側がこれを排除しようとするのかといえば、その原因は戦後の歪みにあります。
GHQが敷いたレールの歪みです。
あたかも反日であることが、正義のように履き違えをしている。
だからダメなんです。
そんなこと言ったって子供によってレベルが違うじゃないか思う方もおいでかもしれない。
成績が優秀な子もあれば、勉強が嫌いな子もいます。
全部が全部一律で考えることはよくないですと仰られる方がいます。
けれど、そういうことをおっしゃる方の方が、むしろ子供を画一的に見てるように思えてなりません。
というのは、例えば勉強は苦手というお子さんであっても、体育は大好きという子もいるのです。
勉強も体育も苦手だけど、絵がうまい、歌が上手、楽器が得意など、さまざまな子がいます。
そうした子どもたちが、社会人になったときに、自分の好きなこと、得意なことで、今度は新しい世の中をひらいていくのです。
だから画一的ではダメなんです。
5教科も同じです。
全部の成績が良くなければダメだと考えることのほうがおかしい。
むしろ、得意な科目、好きな科目を伸ばして上げる。
そうすると、他の科目の成績も上がるのです。
なぜなら、何かを好きになるということは、意欲のもとになるからです。
昔の教育は、義務教育は小学校まででした。
小学6年生ころには、だいたいその子の傾向性がはっきりするものです。
強は嫌いだけど商売をやらせたらピカイチだとか、人当たりがものすごく良くて人気があるとか、勉強はあまり芳しくないけれど、お掃除が得意だとか、料理が得意、裁縫をやらせると、いつまでも飽きずにできる子とか、その子ごとが持つ使命がわかるのです。
だから先生は、小学校6年生の段階で、その子の一生にとって、もっとも良い選択ができるようにしました。
勉強ができる子は、中学校へ。
人々のリーダーになるような子は、師範学校を目指して中学の進学校へ。
勉強は苦手だけど、商才のある子は、むしろ就職を進めました。
ときどき、「俺は小学校しか出ていない」という社長さんが、一代でものすごい財産を築いていたりしますが、それは「小学校しか出ていない」ではなくて、先生が「この子は学校などにいるよりも、事業家への道を早くに進めさせて上げたほうが良い」と判断してのことだったのです。
一方、勉強が好きな子もいます。
化学の元素記号を見ていると、なんだかわくわくするっていう人も世の中にはいるのです。
素敵なことだと思います。
小学一年生からしっかりとした人としての価値観を教育していく。
けれど、そんなあたりまえのことについて、「教師や親が子どもたちに価値観を強要するのは良くない」という教育評論家の人たちがいます。
馬鹿じゃなかろうかと思います。
スポーツにルールがあるように、社会にはルールがあるのです。
そのルールを教え込むことで、ちゃんとした社会人になるのです。
価値観を教えないのは、教育の放棄です。
こうしたことを踏まえて、戦後の教育の最大の過ちは、小学校と中学校の二つを義務教育にしてしまったことです。
これは最悪です。
しかもさらにまずいことに、学区制なんていうものまで実施しています。
その学校に通うためには、学区内の子供ないと、その学校に通うことができない。
どんなに自分が転校を望んでも、学区が違うと入学させてもらえない。
昨今では高校までも学区制になりました。
一昔前までは偏差値によって、高校にはレベルがあったのですが、いまではそのレベルが否定されて、高校も学区制です。
そんなことなら、もはや高校自体が不要です。
さらに義務教育に、飛び級も放校処分もありません。
最近では少子化の影響で、中学校でも1クラス30人という教室が多いけれど、そのクラスの中には、程度の高い子もあれば低い子もいるのです。
けれど、義務教育で放校もできないとなると、教師は、そのクラスの中で、もっとも程度の低い子に合わせて授業をやるしかなくなる。
こうなると成績の良い子や、普通の学力を持つ子にとっては、学校の勉強がまったくおもしろくない。
小学6年生になって、掛け算九九がわからない子がいるからと、一年間、教室で毎日掛け算九九をしていたら、他の生徒にとっては迷惑です。
けれど、義務教育なのだから、それは仕方がないことにされています。
結果、大学生になっても、アルファベットが書けない子がいたりする。
本来は、その教室の勉強について来れない子はどんどんクビ、つまり放校処分にするということで良いのです。
地域の全ての学校で放校処分になってしまうような子であっても、そういう子を受け入れる学校がまたあるのです。
有名な福岡の興志塾は、そんな全国レベルの悪ガキばかりを集めた学校でしたが、そこから頭山満翁のような立派な人が育っています。
教育の無償化が昨今、叫ばれています。
そもそも、国が憲法で義務教育を強制して子どもたちを学校に入れさせるというのなら、本来、義務教育の費用は国が全額負担すべきものです。
けれど、問題の焦点はそこにはない。
むしろいまの状況だと、教育が無償化されれば、いまよりさらに日本人の教育レベルが落ちてしまうことの方が問題なのです。
大学教育に関しても、まず理系からいきますと、理系の研究室は、研究資材一つをとってみても1台で1億しますとか2億しますとか、その研究のためだけの専用の機械だったりするので、ものすごくお金がかかります。
そうすると大学には資金がないので、どうしても企業と共同研究をするといったような形をとっていかざるを得ない。アメリカの大学の場合ですと、大学の教授が自分でスポンサーを探してくれて、つまり大学の運営が運営運用するのが助かるようなスポンサーというものを、次教授は自分で引っ張ってこなくちゃいけない。だから、学問的には大したことないけれども、資金を引っ張ってくる力がある教授っていうのは結構大学では重宝されたりすることがあるわけです。
資金を引っ張ってくるためには文系でも理系でもそれなりに世の中の役に立つような研究をしていかなければならないわけで、こうなると社会的ニーズを満たすために研究をやっている教授のもとで学ぶことになります。
つまりそこで学んだ生徒たちは、実社会で即戦力になる、ということです。
今の日本の教育の仕組みが必要な時代があったことは事実です。
戦後の高度成長期前、中学の卒業生が「金の卵」と呼ばれ、集団就職で工場で働くことが求められた時代には、画一的な教育の需要はありました。
けれどその時代ってほんの10年ぐらいで終わっているのです。
今必要なことは、もっとハイセンスな教育です。
ではこれからの教育をどうしたら良いか。
1 義務教育をなくす。
これは憲法を変えないといけないので、ちょっとたいへんです。
2 放校と飛び級
いまどき飛び級制度を持っていない国は、先進国では日本ぐらいのです。
また付いてこれない子は、容赦なく放校する。
3 文科省の廃止
選挙での報道を見ていますと、相変わらず政局話ばかりです。
もう今日の日本は壊れかかっているのです。
日本は世界屈指の大金持ち国なのに、貧富の差が極端に開いていて、中間層の給料は30年間上がっていません。
よその国に何十兆円も提供するよう余裕があるのなら、国民のためにお金を使いましょうよって、あたりまえの話です。
与野党でそうした議論をするのがあたりまえのはずなのに、与野党とも、そういう抜本的な話はまったくない。
今回の衆院選を見ていると、国民目線に立った特定少数政党と、既存政党の戦いのような気がします。
ありがとうございました。
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