小名木:今回も『私の中の陰陽師』という本を書かれました雑賀信朋先生をお招きいたしまして、お話を伺っていこうと思います。先生は安倍晴明の生まれ変わりなのだそうです。安倍晴明は、映画やドラマ、漫画などでも広く知られていますが、先生には安倍晴明時代のご記憶があるのかお伺いしても良いのかしら?
雑賀:記憶に関しては断片的です。皆さんも前世を思い出すころができないのと同様、私も特に思い出せるというわけではありません。ただ、夢の中で会っているということが大きいのかなと思うところはあります。
というのは、ご神事などに携わっていますときに、「あれ?自分、こんなことできたっけ?」なんていうこが度々あります。こんなの習っていないとか、あるいは本を読んでもスラスラ読めてしまうみたいなことがあったりします。
ですから過去世を思い出すというよりも、過去世を実感すると言った方がふさわしい気がします。うん。誰しもそういうことはあるのではないでしょうか。私が特別ということではなく、多分この動画をご覧になられておいでの皆様の中にも、そういう体験をお持ちの方って、結構いると思います。
何かふとした瞬間に、自分の記憶にあるはずがない記憶が蘇ったみたいな感じでしょうか。
小名木:なるほど、あるような気がします。なぜか赤穂浪士の人物名を全部「覚えた」ではなく、「知っている」とか。それで人物名を聞いただけでもウルウルってなったりする。もしかすると過去世の記憶というのは、なにがしかの感情に作用するのかもしれませんね。現世の記憶でも、5年前10年前の何月何日何時何分に何があってなんて、詳しいことはほとんど覚えていない。けれど要所要所は意外と覚えていたりする。
そういう中にあって、こちらの本の中で、安倍晴明と猛烈な対立関係にあった蘆屋道満との関係が書かれています。ドラマなどでは、敵対的な存在として描かれる蘆屋道満ですが、こちらの本の中では「仲が良かった、同じく陰陽道を極めようとした仲間であった」というように書かれていました。これ、すごい良かったと思いました。
雑賀:実際に仲が良かったと思います。というのも、芦屋道満という名前を聞いたり、実際に蘆屋道満ゆかりの地に行ってみたり、安倍晴明と道満が呪術合戦をしたと言われてるところ見に行ったりもしたのですが、怒りとか嫌悪感じられなくて、逆に悲しみがすごく伝わってたのです。
蘆屋道満と安倍晴明の対決というのは、『芦屋道満大内経』や『政事要略』などに敵対的に書かれているのですが、それらはおそらく政治的な脚色ではないかと思います。
安倍晴明は藤原道長の側に付いていて、蘆屋道満は藤原伊周の側でした。両者の政治的敵対から戦わざるを得なかったっという関係性だったと思います。
けれど、実際にはお互いにリスペクトがあったと思うのです。どちらも系列こそ違え、時代を代表する陰陽師です。そういったところでですねお互いをお互いリスペクトしてたんじゃないかと思います。
本にも書かせていただいたのですが、第2章の最後の方ですけれど「私(安倍晴明)は、善行ばかりしてきたように語られているがそうではない。汚れ仕事もしてきた。私が積んだ徳は、手を汚す仕事に対する償いにすぎなかった。だから今度の人生では、本当の意味で徳を積んで欲しい。私は君のように人々のために祈る道を選べなかった」。
後世に名を残す大道でなくていい。誰かのために祈る細道を行けということが、この本の副題になってるのですが、少なからず芦屋道満との関係性も、おそらくそこあり、二人は生まれる時代が違ったら、互い仲良くできたのではないかというように私は感じているのです。
小名木:すごく嬉しく思います。きっと今の言葉を聞いて、道満さんも喜んでいらっしゃると思います。
本の中には、「中取持ち」という言葉もありますね。
神様にひたすら尽くだけではなくて、神様と人との間をしっかりと取り持っていく仕事を目指したいということで、神職を選ばれたと。
雑賀:そうです。過去世が安倍晴明なら、そのまま陰陽師になればいいんじゃないかって言われることは割とあるのです。けれど、陰陽師というのは、明治時代の太政官布告で廃止されているんです。もともと陰陽師は公的な役職だったのですが、現代には存在していません。
その意味で、残ってもいない陰陽師という肩書きにすがるのもいかがなものかなということで、神職を選ばせていただきました。
小名木:ありがとうございます。本の102ページに、今のお話に関連してとっても素晴らしいことが書いてあったのでご紹介します。
「世の中や歴史の中に影響を与える働きが、イコール神です。天皇陛下におかれましては万世一系として神代より日本を治められてきました。これは尋常ならざることです。我々日本人は天皇を含む日本文化というものを守っていかなければならない立場にあります。近年のいわゆるスピリチュアルを見ていると、神道や仏教を陰陽道などと名乗りながらも、蓋を開けてみれば、その根本は西洋の思想や神観念に則った信仰である事例が多いように感じられます。
一神教の宗教では、信仰心の度合いによって神様がどれだけ力を発揮できるかというとらえ方が主流です。しかし日本人にとっては神様は、あたり前のように存在していました。神様がいるいないを論じたり、どこそこの神様がパワーがあるなどと騒いだりすること自体が異常な状態です。これも日本人の欧米化がもたらした弊害だと思います」
結構ビシッっと書いてあって、感動しました。
雑賀:はい。それに関して、直近であった事例ですが、荒魂(あらみたま)と和魂(にぎみたま)がありますね。奇魂(くしみたま)と幸魂(さちみたま)をあわせて四魂です。ある神社に荒魂が祀られていたのですが、どうして荒魂がわざわざ祀られてるのですかと聞かれて、それは荒魂と和魂があって、荒魂というのはちょっと荒々しい神様で、和魂はすごい優しい神様のお姿ですよって説明をしたのですが、なかなかご納得いただけない。どうして同じ神様が二柱に分かれるの?と、そういったご質問をいただくことが多いのです。西洋では神様は唯一、その神様だけです。その考え方からすると、荒魂とか和魂とかという考え方には違和感があるようなのです。いろいろな神様がいて、それぞれの神様がいろいろな性格の側面を持っている。そのことをご神徳として仰いでお祀りするというのが、日本人的な神様の祀り方ではないかっていうことを書かせていただきました。
小名木:この文章には、すごくシビレました。神様とは「様々な働きのことである」、「我々が生きていく中では、様々なものがいろいろな形で影響し合っている。その影響のはたらきのなかに、我々の生がある。だから生きていくことは、様々なものの様々な働きのお世話になることで、だからその様々な事に感謝する。たとえばいま目の前にあるお食事も、自分で種まいて自分で作付けして自分で収穫して自分で料理して自分で食べてるわけではない。仮に全部自分でやったとしても、作物を育ててくれているのは、地中の微生物であったり、太陽の光であったりする。そういう様々な働きのお世話になりながら、我々は生かさせていただいている。そして自分が死んだら、今度はその様々な働きの一部になっていく。だから我々は我々の祖先を祖先の様々な営みによって今の時代が築かれているし、今の時代が祖先の働きで築かれているということであれば、そのご先祖にまずは感謝の気持ちを持つことが、いろいろな意味での出発点になる。別に特定の神様がどうのこうのとか、それによって願いを叶えてもらうかではなくて、神様は「はたらき」なのだから、自分が願いを叶えたいと思うなら、自分で努力するしかないという、こういうことではないかなと思います。
雑賀:あくまでもその努力に対してのお力添えをいただくというのが、神様への祈り方です。こちらからの姿勢としては、あくまで努力するのは自分であって、そのことを成し遂げるのも自分であるということです。もし金運上昇とかの動き受けて、神様に祈るだけでお金がじゃんじゃん入ってくるのでしたら、祈るだけで良いのです。でも、そうではない。
神様に「お金入ってきますように」と祈ったとしても、結局は自分が働いてお金を得なければならない。お金を得ようとすれば、いろいろな障害が出るけれど、そういう障害を祈りによって祓い避けていただいて、それで祈願が成就したなら、またお礼に行くという、そんな形が良いのではないかなと思います。
小名木:この本の197ページのところに素敵だなと思うところがあったので、ちょっと読み上げますね。
「安倍晴明を超能力者やスーパーマンのように描くのは行き過ぎた行為であり、明らかに間違ってます。日本のスーパーマン現象も西洋の宗教や文化の影響でしょう。最初から最強のスーパーマンがどっかに存在していて、助けに来てくれますようにと幻想を抱く日本人が多いような気がします。スーパーマンが活躍できる舞台は、一神教が浸透した欧米社会でしょう。日本人の元々の気質とは合わない。でも今の時代は、他者に救いを求めることにしか関心がない日本人が大勢います。本来であればあなた自身が人の助けにならないといけないのに、誰かが助けてくれるまで待つのではなく、誰かを助ける自分に人間に自分がなるという義侠の精神が今の日本に欠けているような気がします。」
この文章もシビレました。
雑賀:ありがとうございます。
小名木:世の中には人のことを救いたいと行動しておいでの方も大勢いらっしゃいます。人のことを助けたいっていうのは思う人はかなり多いと思うのです。ただやっぱり、いざとなったときに自分が腹を切って目の前の人を助けられるか、その目の前の人を対価がないと助けないみたいな、そういう考えの人もいます。
例えば政治問題について「一体どうなっているんだ」とばかり、政治討論討をしているテレビに物を投げる、そんなことをしても、何も変わらないし、何も良いことはないと思うのです。そう思うなら、まず自ら国を変えるためにできることをしていく。そうやってみんなの気持ちがちょっとずつ動いていったときにまさに一粒万倍になると思うのです。
たったひとりの小さな光では、ほんの片隅しか照らすことはできないかもしれないけれど、その小さな光が万単位で集まったら国を照らす光になる。だからそういう努力をし、そういう仲間をつくっていこうよといった、そういうものを神様は見ていてくださるのではないかって思うのです。神様は「はたらき」なのだから、神様に味方になってもらいたいなら、「神様ひとつよろしくお願いします」じゃなくて、まずは自分から努力をしましょうねって、そういう解釈でよろしいのかしら。
雑賀:はい。そうです。
小名木:今回は、神様や陰陽師を通じて、二者対立的にお互いにぶつかり合うというところが正しいように見えるけれども、実はそうではなくて、もっと別なところに本当に大切なことがあるのだということを雑賀先生から学ばせていただきました。
次回はもうちょっと現代に近づけて、日本のアニメや漫画は、実は神様の成長を描いているのかもしれないといったようなところについてお話を伺ってみようと思います。
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