小名木:今回も雑賀信朋先生をお招きいたしまして、ご著書の『私の中の陰陽師』の中身を中心にいろいろとお話を伺っていこうと思います。
そこで今回は「日本のアニメや漫画は神様の成長を描く日本神話に通じる」という、152ページの記事のお話からお伺いしていこうと思います。先生、よろしくお願いします。
まず読んでみますね。
「神様はそこにいる存在です。古事記の日本神話にも『神様が見えた』という記述は見当たりません。」
確かにそうですよね。神様が老人の姿で現れたという表現も、日本神話では神様が老人の姿でそこに「いた」という描写になります。
雑賀:今でいうスピリチュアルという言葉を日本語にすると、文化慣習日常となるのではないかと思います。日本人はスピリチュアルとか宗教という言葉をそもそも持たなかっただけで、昔から日常的に宗教と近しい営みを継続してきました。日本人は無宗教だと主張する人をよく見かけますが、大きな誤解です。
例えば、日本で盛んなアニメ文化を一つとっても、日本人の宗教心と深く結びついています。熱狂的なアニメファンは一つのシンボルを作ります。
アイドルという言葉は、元々偶像という意味で、語源は偶像崇拝される人物にあります。アイドルは立派な信仰対象だと言っても過言ではありません。推し活と言いながらやっているのはお祭りそのものです。
アイドルのライブにライブに駆けつけ、会場でグッズを買って全員で熱狂する姿は日本のお祭りを見る感覚と同じです。キリスト教にもイースターなどのお祭り行事はありますが、神様を祀るときは静かに祈りを捧げます。
春に仮装して練り歩くハロウィンは元々古代アイルランドのケルト人の祭りを起源としているので、厳密には休息の祭りではありません。日本では祈りも熱気を含めて祭りというのに対し、西洋では祈りの場と熱狂する場をはっきりと分ける傾向にあるようです。
小名木:日本には教義はないけれど、神社に初詣に行ったり、七五三をしたり。アンケートを取るとほとんどの人が無宗教と答えるのに。それらは立派な宗教行為といえます。日本人は自覚がなくても日常的慣習的に宗教行為をしていて、それを文化と呼んでいますね。
雑賀:そもそも日本人にとって、宗教っていう言葉自体がなじみがない言葉です。この言葉は幕末の造語で、そのような言葉がなくても、日本人は神道や仏教を初めとした宗教行為を行ってきたのではないかと思っております。
また、日本人には、スピリチュアルという言葉も馴染みがない言葉であるように思います。スピリチュアルという言葉は、宗教という語より、さらに後に入ってきた言葉なので。
スピリチュアルというのは、スピリッツ(魂)のことですが、そこに様々な事柄をひっくるめてスピリチュアルと呼んでいるように思うのですが、それももともとはひとつの文化であったわけです。それをあえて「これはスピリチュアル的なことである」とか、「パワースポットである」などとするのは、かえって文化を壊しているように思います。
というのは、「ここはパワースポットだ」と言ってしまえば、そこは歴史が積み重なってできた神社だったりお寺だったりしていて、先達の研鑽があって、今の場所になっているのです。
第2回でも申し上げた通り、先祖の結びの働きであったり、いろんな人間の働きっていうものが、神様となっているわけなんですけれども、パワースポットというのは、主に、
「こちらからパワーをもらいに行く」というスタンスなんですね。
だけど、それではちょっと物足りないように思います。
日本の神社やお寺に諸々の文化を感じるには、やはり歴史を知り、その上で神様がどういう働きでここにおわすのかを理解し考慮して参拝するのが本当だと思うのです。パワーをもらうだけでは、神様を殺すことにもなりかねません。
小名木:「神様を殺しかねない!!」歴史等を鑑みずに神様に祈るのは、いま生きている自分は、いまの時代の歴史担う立場だということですね。その歴史を作る歯車の一つになるにあたって、神様の歴史を知らず、ただ祈るだけだと、それまでに積み上げらてきた伝統や歴史っていう情報を捨ててしまうことになる。だからそれは神様を殺すことになりかねない!
雑賀:祈る人がいなくなってしまったら神様が死んでしまうことを、私は「神殺し」と呼んでいます。簡単に言うと、商売繁盛の神様だと言われて参拝に行って、二礼二拍一礼して「商売繁盛よろしくお願いします。明日からバンバンお客さんがやってきますように。よろしくお願いします」みたいなお願いをするだけのとき、お願いされた神様の側からしてみれば、「だから何なの?あんた自身の努力はどうなってるの?」ってなると思うのです。まずは自分で精一杯努力してから出直してきなさい!と。
小名木:「俺は何の努力もする気はないんだ、商売繁盛と神様って書いてあるじゃないか、書いてあるんだから、商売繁盛してくれればそれでそれでいいんだ、ふざけんな」みたいなことを人間の側がやっていたら、果たしてどうなるのか。それでは神様が怒っていなくなっちゃいますよと、そういう理解でよろしいのかしら。
雑賀:そうですね。それも一つあるのですが、そういう祈り方だと、別に神様じゃなくても良くないかって思うのです。そこにある歴史が神様のアイデンティティだったりもするので、その歴史をなくしてしまうなら、別にその神様じゃなくてよくないとことになり、神様の存在意義がわからなくなります。願いを聞いてくれないなら、ちょっと別な神様にしとこうかなとか、何かそういったことになっちゃうと思うんです。
日本が今まで2000年近くも天皇陛下がずっと守り続けてきたものって、歴史だったり文化だったりします。これはすごい事で、他の国ではありえないことです。すくなくとも現段階でここまで歴史や文化をしっかりと守って保存してきた国って他にないと思うんです。
日本の神様も同じで、神様として、文化や歴史を守ってこられたということになります。ですから「文化と歴史、神様」というのは、全て同じ言葉です。神イコール文化であり、歴史だと思うのです。
小名木:文化歴史を途切れさせてしまうということは、その神様も途切れさせてしまうということでしょうか。実際、南米のインカには、遺跡が残ってるけれど、どのような神様をどのようにお祀りしていたのか、神様と人々の関係がどうであったのかなどということが全部失われてしまっています。つまり神様そのものが失われてしまった。
文化を失うということは、同時に神を失うことにもなる。
先ほどスピリチュアルについてお話しを伺いましたけれど、すごく鋭い指摘だなと思いました。スピリチュアルという用語は、もともとスピリットから来ている。スピリットというのは魂のことですが、それなら「大和魂」はスピリチュアルなのか。そうではなく、「大和魂」というのは「生きざま」だよねということに、あらためて日本人は気付いていく必要があるのかなって思いました。
ありがとうございました。