日本栗は縄文時代から栽培され、現代の甘くて大粒な栗へと改良されてきました。古代には建築材として、また中世には税の対象として重要視されており、日本文化と深い結びつきを持っています。天津甘栗が有名ですが、日本栗の独自の美味しさは格別で、栗ごはんや羊羹など様々な加工品が親しまれています。この背景には、日本人が自然との共生を大切にしてきた歴史があります。日本栗を味わいながら、自然と人が共存する日本の文化的価値を感じてみましょう。
ちょっと季節はずれになってしまったけれど、栗のお話をしてみたいと思います。
というかこの記事、10月中旬にアップするはずが、だいぶ日にちが経って今になってしまいました。
季節はずれになってしまいましたが、ご容赦願います。
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どういうことかよくわからないのだけれど、最近では「栗(クリ)」といえば、天津甘栗のイメージなのだそうです。
なるほど、スーパーや商店街などで天津甘栗屋さんは、よく見かけます。
この天津甘栗というのは、China産の栗(くり)で、これは小粒で甘いのが特徴です。
栗は、他にも西洋栗なんてのもあって、これはマロングラッセなどによく使われる。
そういうのが栗だと思っていると、栗拾い園などに行って、栗を自分の手で拾ってみたとき、ひどく驚くことになります。
なぜ驚くかというと、
栗がでかい!、甘い!、うまい!
実はこの、大きくて甘くて美味しいというのが、日本栗(ニホンクリ)の特徴なのです。
栗は長いこと「Chinaから渡来し、江戸時代に品種改良されて、いまのニホンクリになった」とされてきました。
ところが、この筋書きを一変させたのが、青森県の「三内丸山遺跡」です。
なんとそこでは、いまから約5000年もの昔に、栗が栽培されていたことがわかったのです。
ただ栽培されていただけじゃありません。
管理栽培されていた。
それもなんと、1500年もの長きにわたり、栗が栽培されていたのです。
大きな実は、もちろん食用です。
そして栗の大木は、建築資材として用いられたのです。
そして何千年の時を経て、日本の栗は品種が改良され、いまのような大粒でたくさん採れて、甘くて美味しい栗になったのです。
栗は日本書紀にも登場します。
「栗栖」と書かれている。
「栖(す)」というのは、いまでは住処(すみか)のことで、昔は栽培している場所を表しました。
ですから、代々の天皇が持っていた「栗栖」は、栗の木を栽培していたところです。
9世紀には、常陸国の鹿島神宮の遷宮にあたって、大量の材木を使うため、 神宮司が神宮のそばに成長の早い栗の木を5700本、 杉を4万本植えることを太政官に申請し、許可されたことが、「日本三代実録」に記されている。
また、中世の荘園では、田畠からの年貢だけでなく、栗林については面積が、桑、漆、柿などは本数が正確に調査され、 それぞれに税金が課せられています。
要するに、栗が税の対象だったということは、栗がそれだけ国家的資産として、とても大切にされてきたということでもあります。
ちなみに冒頭の「天津甘栗」ですが、Chinaでは別に天津市が栗の名産地というわけではありません。
大正3(1914)年創業の甘栗太郎という会社が、Chinaの山奥にChina栗の大自然林があることを見つけ、これを日本に輸入して「天津甘栗」として売り出したのが発端です。
たまたま、出荷するのが「天津港」だったことから、「天津甘栗」の名前がついた。
別に、Chinaの天津市が栗の名産地というわけではない!(笑)
そうえいば先日、ある方から栗羊羹をいただいたけれど、栗そのものの素材の味を活かしたとてもおいしい羊羹でした。
栗といえば、ゆで栗、むし栗、焼き栗、栗のから揚げ、栗の甘露煮、栗かのこ、栗の茶巾絞り、栗ごはん、栗おこわ、栗の渋皮煮など、日本では、様々な形に加工して食されています。
このように、素材をいろいろ加工して食べる習慣があるというもの、それだけ長い期間にわたって、栗が日本人に愛され続けたという証拠でもあろうかと思う。
栗に限らず、日本人というのは縄文の昔から、自然との共存、というより共生をしてきた民族なのだとつくづく思います。
自然に手を入れることで、自然とともに生き、自然を大切に育みながら、その自然のもつ恵みをいただく。
それは、共存共栄であり、相互依存であり、最近流にいうなら、まさにwinwinの関係です。
人と人との間も、共存共栄、共生。
国家関係も共存共栄、共生。
そういう概念が、日本人に取っては、まるで空気のようにあたりまえの概念となっています。
けれど、世界は必ずしもそうではない。
奪うこと、殺戮すること、占領すること、独占することこそが自国の利益と考える。
日本にとって大切なことは、甘く見られない国になることなのかもしれない。
そんな気がします。