1332年の今日、鎌倉幕府が後醍醐天皇を隠岐に流罪を決定しました。その背景には地震や疫病、御家人の困窮、政治腐敗がありました。時代の末期に起こった社会の歪みと、現代の日本に重なる問題を比較し、歴史から学ぶ視点を語ります。

◉ 後醍醐天皇の流罪とその背景

1332年、鎌倉幕府は後醍醐天皇を隠岐へ流罪とする決定を下しました。本来、天皇は国家の最高権威であり、将軍や執権はその配下にある存在です。それにもかかわらず、執権であった北条氏が天皇を処罰するという異常な状況が生まれたのです。

この決定に至るまでには、深刻な社会的背景がありました。
まず、御家人層の困窮です。元寇後も続いた異国警固番役の負担や、所領の分割による収入の減少、さらには貨幣経済の浸透による借金の増加など、御家人たちの生活は逼迫していました。

加えて、幕府は恩賞も十分に与えず、徳政令を出すことで一時的に借金を帳消しにする対応をとったものの、抜本的な改革は行われず、庶民の不満は高まっていきました。そんな中で後醍醐天皇は、「このままでは国が持たない」として倒幕を志し、幕府側との衝突に至ったのです。

◉ 地震と疫病、民衆の不満が高まった鎌倉末期

幕府が弱体化する一方で、自然災害も民心の離反を加速させました。1293年の鎌倉大地震をはじめ、1299年、1317年、1325年、1331年と各地で大地震が発生。特に1331年には京都で大地震が起き、直後に疫病が大流行しました。

この疫病では、鴨川の河原に遺体が山積みになるほどの被害が出たと伝わっています。このとき、後醍醐天皇は知恩寺の空円上人に命じて百万遍念仏を行わせ、疫病の終息を祈願させました。七日七晩で疫病が収まったことから、「百万遍」の号が寺に授けられたとされます。

このように民衆からすれば、政治の無策に苦しむ中で救いの手を差し伸べてくれた後醍醐天皇は、まさに「民のための存在」だったわけです。それに対し、財政が破綻しながらも私腹を肥やす北条氏の存在は、明らかに民心の敵となっていました。

◉ 現代日本との共通点と、歴史からの学び

後醍醐天皇が幕府に反旗を翻した時代背景を振り返ると、現代の日本にも共通する要素が見えてきます。政治腐敗、庶民の重税負担、所得の減少、そして無策な政府。歴史は繰り返すと言いますが、鎌倉幕府末期の崩壊は、現代にも警鐘を鳴らしているかのようです。

また、知識人たちが現実から目を背ける様子も、当時の吉田兼好の『徒然草』に見られるように描かれます。動画では、こうした「逃げる知識人」への辛辣な批判も込められていました。

さらに、歴史を動かしたのは少数でも信念を持った人々。楠木正成のように「何が何でもこの国を立て直す」という強い意志を持つ人たちが、腐敗した体制に挑み、時代を動かしました。

我々もまた、過去の歴史から何を学び、どう行動すべきかを問われているのかもしれません。

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