江戸幕府の成文法『公事方御定書』を手がかりに、日本がなぜ罪刑法定主義を採用せず、裁きに柔軟性と人情を重視してきたのかを探ります。その背景には、日本独特の文化と思想がありました。
◉ 江戸幕府の成文法『公事方御定書』とは
1742年、8代将軍徳川吉宗のもとで編纂された『公事方御定書』は、江戸幕府における初の本格的な成文法です。老中・松平乗邑が指導し、町奉行や代官といった幕府の裁判官に向けて作られた“裁判のマニュアル”でした。
上巻では殺人・窃盗・放火などの刑事事件への処罰基準を示し、下巻では年貢未納や土地争いなど民事案件への対応策が記されました。とはいえ、これらは厳密な法律というよりは「判例集」や「手引き書」に近い性格を持ち、現場の裁量を前提としていたのです。
また、奥書には「奉行中之外不可有他見者也」と明記されており、三奉行や京都所司代、大坂城代といった限られた上層部のみが閲覧を許された秘密文書でした。これは、刑法の公開が威嚇効果を下げると懸念されたためでもあります。
◉ 西洋の罪刑法定主義とどう違うのか
「罪刑法定主義」とは、「法律なければ罪なし・刑罰なし」という原則で、フランス革命を経て確立されました。これにより恣意的な裁きを排し、権力者といえども法律に従わせる近代国家の根幹となったのです。
一方、日本では古代の大宝律令以降も、成文法はあっても、すべてを文字で縛るのではなく、あくまで現場の判断が重視されてきました。江戸時代の『公事方御定書』においても、裁判官の裁量を前提とし、状況や人間関係、情状を考慮する余地を広く残していました。
◉ 日本が罪刑法定主義を採らなかった五つの理由
① 「和」を重んじる共同体文化
日本では古代から村落共同体が社会の単位であり、トラブルの解決も「ムラの掟」や「年寄りの裁き」で行われてきました。そこでは法律よりも、「人としてどうか」という道徳的判断が優先され、法よりも和解と再生が重視されたのです。
② 「天」と「道徳」による無言の統治
日本には「お天道様が見ている」という道徳観があります。最終的に裁くのは人ではなく“天”であるという考えから、法律にすべてを明記する必要がないとされました。むしろ道徳や名誉、恥の意識こそが秩序の源と考えられていました。
③ 「恥の文化」による行動制御西洋が「罪の文化」であるのに対し、日本は「恥の文化」。外から罰せられるよりも、恥じる心や周囲の目によって人が自律する社会です。このため、法が未整備でも人が正しく生きる文化が根付きました。
④ 恣意的裁量を許容する社会の信頼日本では「上に立つ者は、下々の生活に配慮し、臨機応変に裁きを下すべし」という文化があります。一律の法よりも人徳と裁量に信頼を置く社会だったのです。だからこそ『公事方御定書』も、あえて詳細な法律ではなく、「目安」の形をとりました。
⑤ 儒教の影響による「徳治主義」江戸幕府は朱子学を重んじ、「法による支配」より「徳による統治(徳治主義)」を理想としました。為政者が徳をもって民を導くなら、法律は補助にすぎないと考えられたのです。実際、成文法の硬直より、状況に応じた判断が“善政”とされた文化が背景にありました。
◉ 現代社会への示唆
現代社会では、AI犯罪、ディープフェイク、SNSによる誹謗中傷など、想定外の悪事が次々に登場しています。そうした中、成文法だけでは対応しきれない現実が浮かび上がってきました。
罪刑法定主義のような厳密な法体系は、抜け道を生み出しやすく、逆に悪事を助長する側面もあります。複雑すぎる法律は一般の人に理解されず、結局“読んだ者だけが悪用できる”状態になりかねません。
こうした時代だからこそ、江戸時代のような「裁くための法」ではなく、「共に生きるための法」という発想が改めて見直されるべき時なのではないでしょうか。
◉ まとめ:柔らかな知恵としての法
『公事方御定書』は、成文法でありながら“杓子定規ではない”日本らしい法文化の象徴です。そこには、人と人との関係性を重視し、裁判もまた「生きるための知恵」であるという思想が込められています。
近代法の理念と日本古来の柔軟な運用。この両者をどうバランスさせていくかが、これからの時代を支える法制度の課題といえるのではないでしょうか。
