3月17日は1959年に少年マガジン・サンデーが創刊された日です。当初は小説中心でしたが漫画が人気となり、70年には150万部を超えました。
また、1876年の太政官指令で夫婦別姓が認められましたが、1898年に同姓へ移行します。漫画史と家族制度の変遷を振り返ります。

少年マガジン・サンデー創刊と漫画文化の幕開け

1959年(昭和34年)3月17日は、日本の漫画史に大きな足跡を残す日です。
この日、「少年マガジン」(講談社)と「少年サンデー」(小学館)が創刊されました。
当時1冊30円(現在の価値で約3900円)と高価でしたが、漫画文化の黎明期を象徴する出来事です。
創刊当初は連続小説が中心で、漫画の連載はわずかでした。例えば、マガジンの表紙を飾ったのは朝潮太郎の小説です。しかし、徐々に漫画の人気が高まり、1970年には発行部数が150万部を突破するほどの人気雑誌へと成長しました。

この背景には、貸本屋や紙芝居といった漫画普及の土壌があります。
戦前の貸本屋では、漫画を借りて読む文化が根付いており、「真空斬り」や「ロボたん」などの作品が子供たちに愛されました。
また、紙芝居屋は自転車で公園に現れ、黄金バットの物語を披露し、聞き終わった子供におせんべいを配るなど、娯楽として定着しています。これらが、週刊漫画誌の成功を支えた土台です。
少年マガジンからは、ちばてつやさんの『ハリスの旋風』や『あしたのジョー』、川崎のぼるさんの『巨人の星』、水木しげるさんの『ゲゲゲの鬼太郎』、赤塚不二夫さんの『天才バカボン』など名作が生まれました。
特に『あしたのジョー』は三島由紀夫先生が熱狂的なファンで、1970年のある夜、撮影で遅くなった彼が編集部を訪れ、1冊を求めた逸話は有名です。一方、少年サンデーでは横山光輝さんの『伊賀の影丸』や『ジャイアントロボ』、藤子不二雄さんの『オバケのQ太郎』、手塚治虫さんの『どろろ』などが連載され、漫画文化を豊かにします。こうした作品群が、日本の漫画を世界に誇るカルチャーへと押し上げた原動力となりました。

夫婦別姓から同姓へ:明治時代の家族制度の変遷

3月17日は漫画史だけでなく、日本の家族制度の歴史にも注目すべき日です。
1876年(明治9年)、太政官指令により「婦女は結婚してもなお所生の氏を用いること」と定められ、夫婦別姓が公的に認められました。
これは、結婚後も妻が旧姓を保持する制度で、江戸時代から慣習として存在しています。しかし、1898年(明治31年)の民法制定で夫婦同姓が導入され、現在の形に落ち着きます。

夫婦別姓が認められた背景には、家制度と財産管理の文化があります。当時、結婚はお見合いが主流で、家同士の結びつきが重視されました。
妻は夫の家に入り、財産管理の全権を握る役割を担います。例えば、奉行の家に嫁いだ娘が財産を浪費した場合、実家が賠償責任を負う慣習がありました。このため、妻の出自を明確にする夫婦別姓が機能していたのです。このため結婚する夫婦は、妻の実家の方が格上であることが多く、夫が妻に頭が上がらないケースも珍しくありませんでした。

家庭内における正妻の権限は、財産管理だけではありません。側室を迎えるかどうかの判断もまた、正妻に委ねられました。
勝海舟さんのように側室を多く持つ例もありましたが、財産と家の維持は正妻の手にありました。
このように、夫婦別姓は家族制度を支える仕組みとして機能していましたが、明治31年の欧米流の同姓導入で終焉を迎えました。

現代への問いかけ:漫画と家族の意義

少年マガジン・サンデーの創刊から60年以上が経ち、漫画は日本を代表する文化となりました。
一方、夫婦別姓の歴史は現代の家族観に問いを投げかけます。
かつての別姓は家の存続と財産管理を前提とした制度でしたが、現代の個人主義では家族の形が多様化し、財産も個々に管理されます。
同棲に近い関係での別姓は、養育費や責任の所在を曖昧にしかねないものでしかありません。

対照的に、漫画文化はコミュニティを育み、世代を超えて共有される喜びを提供してきました。
休み時間に友達と漫画を読み合う思い出や、付録付き月刊誌を親にねだった記憶は、多くの人にとって懐かしい原風景です。
家族制度が個人主義に傾く中、漫画が示す「つながり」の価値は、現代社会に新たな視点を与えるのではないでしょうか。

3月17日は、過去の文化と現代の課題を考えるきっかけとなる日です。

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