日本では、子どもが一人で通学するのが「当たり前」。
それは法律や警察の力ではなく、長屋文化や五人組制度など、人と人との信頼と連帯が支えてきたからです。
その根底にある“日本人の感覚”をたどります。

🔹 1. 「子どもが一人で通学する国」──世界が驚く日本の常識

多くの外国では、小学生を一人で登校させるなど考えられません。
親が送迎し、学校の門が閉まるまで見届けるのが当たり前。
しかし日本では、小さな子どもがランドセルを背負い、友達と、あるいは一人で通学する姿が日常風景です。

この“当たり前”の背景にあるのは、日本が長い時間をかけて育んできた「信頼の文化」です。
つまり、他人を信じ、地域全体で子どもを見守るという意識が、日本社会に深く根づいてきたのです。

🔹 2. 制度ではなく「文化」が守る治安

日本に近代警察制度(巡査制度)が誕生したのは、明治7年(1874年)のことです。
それ以前、日本の治安はどう守られていたのでしょうか?

その答えは、村社会の連帯や「五人組」制度、長屋の人間関係などにあります。
つまり、「人が人を見守る」という文化が自然と機能していたのです。

江戸時代、250万人が暮らした江戸の治安を守る町奉行の同心はたった6人。
それでも、享保年間20年間に牢屋に収監された人が「ゼロ」という驚異の記録があります。
そこには、法律ではなく「関係責任」──つまり“迷惑をかけると周囲にまで連座する”という共通意識が働いていたのです。

🔹 3. 関係責任と「空気を読む力」

日本には、「悪いことはバレる」「バレたら恥ずかしい」「周囲に迷惑をかける」という共通感覚があります。
これは、欧米のような“レスポンシビリティ(応答責任)”ではなく、“関係責任”という日本独自の感覚です。

たとえば吉田松陰が密航未遂で捕まった際、師である佐久間象山も連座して処罰されたこと、
あるいは遊郭から逃げた少女を匿っただけで、周辺住民までもが重税や立ち退きを命じられた江戸の制度などが象徴的です。

このような厳しい「責任の共有」が、結果的に「悪いことをしない社会」「良いことが尊ばれる社会」を築いてきました。
だから、ゴミ拾いをする人が尊敬され、忘れ物が戻ってくる国になったのです。

🔹 4. 文化を壊す“新たなリスク”と、再生への道

しかし近年、日本の見守り文化は揺らいでいます。
「声をかけただけで犯罪扱いされる」ような風潮や、外国人労働者の急増による地域秩序の崩壊など、
人と人とのつながりが断たれつつあります。

それでも、日本にはまだ「人を信じる力」が残っています。
そう信じて、「文化が治安を守る」という発想を、もう一度見直す時が来ています。

武士が刀を帯びながらも斬り合わなかった文化、
震災の列に静かに並ぶ人々、
ゴミ拾いをする人を尊ぶ心。

それらはすべて、“制度”ではなく“人の心”が支えてきたものです。
そしてその心こそが、「子どもが一人で歩ける国」の礎なのです。

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