1945年8月26日、日本政府はRAAを設立しました。表向きは女性事務員募集でしたが、実際には進駐軍兵士の相手を強いられる施設でした。犠牲の歴史を学ぶことは、日本人が「誇り」を取り戻す第一歩です。

終戦直後に設立されたRAAとは

1945年8月15日の終戦からわずか11日後、日本政府は「特殊慰安施設協会(RAA)」を設立しました。英語名は Recreation and Amusement Association。直訳すると「余暇・娯楽協会」ですが、実際には進駐軍兵士を相手にする慰安施設の統括機関でした。

設立の目的は、敗戦国として無防備な日本の女性たちを守るためでした。敗戦直後の日本では、進駐軍による強姦事件が多発しており、神奈川県下では進駐後10日間だけで1,336件、最初の1ヶ月で少なくとも3,500人以上の女性が被害に遭ったと報告されています。

ベルリンでは女性の八割が被害に遭ったとされ、沖縄戦でも連合国軍上陸後に一万人以上の女性が被害に遭いました。こうした国際的な現実の中で、日本政府は「一般婦女子を守る」ために、やむなくRAAを設置したのです。

小町園の悲劇と各地の慰安所

RAA第一号となったのは、品川区大森海岸にあった料亭「小町園」でした。募集は「事務員募集」と称され、官庁勤めの娘や学生、軍人の妻などが応募しました。しかし、彼女たちに課されたのは進駐軍兵士の相手をするという現実でした。

ある女性は初日に47人の兵士を相手にせざるを得ず、泣き声と怒号に包まれる日々が続きました。中には心身を壊し、命を落とす人もいたと伝わります。東京都内だけでも、終戦から3か月以内に25か所の慰安所が開設され、熱海や箱根など保養地にも広がりました。

高級将校用には墨田区向島の「迎賓館大蔵」や世田谷区若林の「RAAクラブ」が設置され、一般兵士用には小町園のほか多摩地域の割烹旅館やキャバレーが転用されました。ピーク時には全国で約7万人、閉鎖時でも5万5千人の女性がRAAで働いていたといわれます。

報酬は1回2ドル(当時の約300円)。銀行員の初任給が80円の時代に、月収5万円を稼ぐ女性もいました。しかしその代償は、誇りを傷つけられ、体と心をすり減らす苛烈な現実でした。

日本人の誇りと学ぶべき教訓

一方で、日本の軍隊は古来、他国の女性に手を出さない規律を守ってきました。合意の恋愛であっても「強姦」として処罰されるほど、女性の尊厳が重んじられていたのです。その根底には「国民は天皇の大御宝(おほみたから)」という思想がありました。

小町園の悲劇は、日本が「国を失うこと」の恐ろしさを示す象徴です。国を守る力を失えば、女性や子どもといった弱き存在が真っ先に犠牲になります。だからこそ、私たちが歴史から学ぶべきは「誇りをどう取り戻すか」という問いです。

誇りとは、他を踏みつけることではありません。稔った稲穂のように腰を低くしながら、真っ直ぐに生きる力のことです。RAAの悲劇に耐えた女性たちの犠牲があったからこそ、今の日本がある。そのことに感謝を捧げ、二度と同じ悲劇を繰り返さないことが、私たちの責任です。

所感

RAAに動員された女性たちの犠牲を思うと、胸が張り裂けそうになります。その痛みを知ることは、日本人にとって「恥」ではなく「誇り」を取り戻すための大切な学びです。誇りとは決して他者を傷つけることではなく、困難にあっても人を守り、真っ直ぐに生きる力です。

彼女たちの苦しみを無駄にしないために、私は語り続けたいと思います。歴史を学び、感謝をもって未来を築く──それこそが今を生きる私たちに課せられた使命ではないでしょうか。

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