政府が「移民」を避けて「外国人労働者」と言い換える構図を検証。統計や学校・地域の変化、費用負担の実態を確認し、受け入れの手順設計と国会運営の是正、地方からの改革を私の立場で提案しました。
1 「移民」と言えない政治——言葉のすり替えが問題を隠す
今回の対談では、まず「日本には移民問題が存在しない」という前提で議論を進めようとする政治の言葉づかいを取り上げました。
政府や与野党の一部は「移民」を避け、「外国人労働者」と呼び換えます。
すると議論は必ず労働問題=人権論に矮小化され、肝心の“受け入れ総量・定着・国籍・地域コミュニティ”という骨格論に到達しません。
ここに日本の統治技術上の大きな欠落があります。
本来は、国連等で用いられる「生活の拠点を国外に置く者」という趣旨の定義を踏まえ、
「いま日本にどれだけ定着しているか」
「年々どれだけ純増しているか」を率直に確認すべきです。
既に数百万人規模の定住外国人がいる現実や、永住・技能実習・技術人文知識・家族帯同・留学等の在留資格が全体の大半を占める構図があります。
つまり、日本は実態として“移民国家的”様相を強めているのです。
にもかかわらず、言葉の置換えで議題を回避してきたため、制度設計(プロトコル)が空白のまま人だけが流入し、学校・医療・社会保障・地域治安・文化摩擦に負荷が累積しています。
2 数字と現場が示す危機——費用、教育、地域、行政のボトルネック
外国人を受け入れを語る際に「費用」と「現場」の視点を外してはなりません。
例えば、研修や就労名目で年間数万人〜十万人規模の受け入れを想定すると、政府・自治体の支援や行政通訳、教育補助、医療・生活インフラ整備等に多額の税負担が生じます。
仮に一人当たり数百万円規模の公費が必要だとすれば、十万人で数千億円、累積すれば兆円単位です。
もし同額を日本人の職業訓練や成長産業育成に投じた場合との比較衡量が不可欠です。
教育現場でも歪みが起きています。
ある地域では、1クラスの大多数が外国人という状況が生まれ、日本人児童が「名前」を理由に萎縮・不登校傾向に陥る事例が出ています。
多文化共生は理念として大切ですが、母語教育・日本語指導・学習保障・学級運営・保護者対応の体制が不足したまま量的受け入れを拡大すれば、現場は疲弊し、互いの不信を増幅させます。
さらに、国会運営の慣例(逆質問を避ける、全会一致を重んずる等)が、実質的な政策点検を弱めています。
警察実務の「事実確認」に学び、
(1)定義の明確化、
(2)統計の整合、
(3)前提条件の確認、
(4)因果の詰め、
という質問術を国会に導入すべきだと考えます。
例えば、閣僚に
「日本に移民問題はあるか」を問うなら、
先に「移民の定義」を答弁させ、
定義に基づく数量を確認し、
そこから対策の要否を論理的に逃げ道なく詰める。
これが民主政治の基本です。
あわせて、JICAの「ホームタウン」表現など、国際協力の語法が国内制度に与える影響も検証が必要です。
言葉は国際的な「合図」になりえます。
国内の受け入れ意思・条件が整っていない段階で「親密さ」を軽々に演出すれば、相手国や仲介業者に誤ったシグナルを与え、実質的な移住準備と受け取られる恐れがあります。
ここにも制度設計の空白があります。
3 “受け入れの作法(プロトコル)”を作る
外国人問題は、ゼロか百かの二項対立ではなく、
「受け入れの作法」を先に作るべきです。
日本は“米(こめ)の国”です。米に少量のふりかけを添えて味わいを深めることはあっても、主食そのものを入れ替えない・・・このたとえが、バランス感覚です。
