近代日本の法はフランス法を手本に整備され、条文主義が定着しました。一方でイギリス流は慣習を優先。日本の歴史・風土に即した法の運用と原点回帰の必要性を論じます。
Ⅰ 日本法はなぜ「条文主義」になったのか──フランス法と近代化の同時進行
動画は、「法律は万能なのか」という素朴な疑問から出発します。
明治初期、近代国家への転換を急いだ日本は、欧米列強と肩を並べるために法制度を輸入しました。
参照軸となったのが、フランス革命以後に整備されたフランス法典です。
市民が制定する明文法を基礎に「法治国家」を組み立て、善悪・可否をできる限り条文で定めるという思想が広がりました。
この思想の背景には、ナポレオン期に象徴される国家の組織化がありました。
市民軍は国家の名のもとに「どこまでも戦う」主体へ転じ、旧来の傭兵制中心の王国軍を圧倒します。
ヨーロッパ各国はフランス流を参照し、王も法の下にある立憲君主制を導入、徴兵制度を含むルールの近代化を進めました。
幕末維新期の日本は、この潮流のただ中でフランスの法体系を採用し、大学教育も同系統で標準化。
教授の人材供給を通じて全国に「条文を解釈して適用する」学風が広がりました。
条文主義の実務では、条文の語句を厳密に定義し、要件・効果を論理的に積み上げます。
たとえば詐欺罪なら「人」「欺罔」「財物交付」などを一つずつ確定します。
法人責任や共犯関係の分担も条文と判例理論で整序します。
こうした厳密さは法的安定性の源泉ですが、現実の事象は条文の想定を超えることが多く、細則や委任命令が増殖しがちです。
結果として、「誰も全体像を読み切れないほど細かな法体系」と「違反時に初めて知る条文」が生まれやすくなります。
戦後日本で拡大した経済関係法令に典型が見られ、条文主義の限界がにじみ出ていることが指摘されました。
Ⅱ イギリス流「慣習法」の視点──法の前に社会がある
これと対照的なのが、イギリスの法体系です。明治18年に創設されたイギリス法学校(のちの中央大学)は、慣習法(コモン・ロー)の考え方を教えました。
ここでは、法は社会の慣習・倫理・通念に裏打ちされ、個々の事件では「何が社会的に妥当か」をまず見る姿勢が重んじられます。
動画では日常的な例が示しました。
たとえば、女性を強引に連れ去ろうとする者を止める過程で相手を殴ってしまった場合、条文だけを見れば傷害の構成要件に該当します。
しかし、社会の通念や道徳に照らせば、非難されるべきは誰か、制裁の重心はどこに置くべきか──という評価が先に立ちます。
詐欺の事例でも、条文学の形式的整理だけでは生活実感に沿いにくい局面が出ます。
イギリス流は、慣習と判例の積み重ねを通じて「具体的妥当性」を担保し、条文はその上に“乗る”形で運用されます。
つまり、法は社会から遊離した抽象の体系ではなく、「社会を測る物差し」であるべき、という立場です。
この視点を日本に引き寄せると、古来の裁判文化が思い出されます。
動画では、平安期の藤原の金島が「判決理由の明記」を制度化した点に触れ、先例の集積と理由の公開によって、公正への納得を社会に広げる努力が続いてきたと整理しました。
さらに、日本列島の長い歳月が磨いた生活のエッセンス──風土・共同体・作法──は、まさに日本版の「慣習法」と呼べる基盤であり、ここを無視して条文だけを積み増しても、現実への適合は高まりません。
要するに、条文主義か慣習法かという二者択一ではなく、
「日本の歴史が育んだ慣習を土台に、条文を調律する」総合姿勢が鍵になります。
Ⅲ 原点回帰と再設計──日本の風土に即した法へ
動画の結論部は提言です。
第一に、条文の網を細かくするだけでは社会の妥当性は担保できません。
むしろ、生活の常識や通念を掬い上げる回路(地域・現場・職能の知)を法運用に織り込む必要があります。
第二に、学術の役割を再確認します。
大学は既存理論の要約装置ではなく、「日本にとっての妥当」を原点から検討し社会に提案する知的エンジンであるべきです。
第三に、先例と理由のアーカイブを活かし、透明な説明責任を徹底すること。
理由が共有されれば、当事者だけでなく社会全体の納得が積み重なります。
動画では、日本の30年停滞にも言及がありました。
制度を増やしても成果につながらないなら、思想の土台を問い直すべき時期です。
明治以来のおよそ140年、輸入理論を積み上げてきた歩みをいったんフラットにし、ゼロベースで「日本の風土に合う法」を再設計する。
ここで拠り所となるのが、日本史の長い時間が濾過して残した慣習のエッセンスです。
そのエッセンスは、細則化の対極にある「人のふるまい」を整える力を持ちます。
法学・実務・教育が連携し、条文の精度と社会の納得を両立させるなら、法は人を縛る鎖ではなく、人の尊厳を支える器へと機能を取り戻します。
先人が築いた知恵に学び、子や孫へより良い日本を手渡すために──今こそ、条文主義と慣習のバランスを、日本の手で整え直す時です。
