戦後80年。世界は「善悪」「正義」「差別」といった二項対立の枠に自らを閉じ込め、混乱と憎しみの連鎖を繰り返しています。
今夜の倭塾では東郷潤先生を迎え、欧米社会に蔓延する“躁鬱状態”の本質と、その根底にある認知の歪みを掘り下げました。
日本が古来より育んできた「水に流す」文化を手がかりに、人類が再び共鳴し合う文明への道を語ります。
第一章 戦後500年の「認知の混乱」と欧米社会の崩壊
戦後の80年、日本だけでなく欧米社会もまた深刻な「価値観の混乱」に陥っています。
植民地支配を終えた西洋は、「有色人種を人間と認めなければならない」という新たな現実に直面し、500年続いた“自らが神に選ばれた民族”という前提を失いました。
東郷先生は、この変化を「認知の病」と表現されます。
つまり、心の中に形成された“優越幻想”が崩壊したことで、善悪の軸を見失い、社会全体が躁鬱状態に陥っていると解きます。
この「心の病」は、かつての戦争によって日本軍が“治療”の第一歩を促したものでもあります。
西洋人にとって、かつて「猿」と見なしていたアジア人が人間として対等に戦った。その衝撃が、彼らの認知を根本から変える契機となったのです。
だからこそ東郷先生は、「日本の先人たちは、世界の心の病を癒す扉を開いた」と感謝を込めて述べています。
第二章 罪悪感と自傷行為──アメリカ社会の“躁鬱構造”
アメリカでは、不法移民を受け入れ続ける政策や軽犯罪の黙認など、常識では理解できないような現象が起きています。
東郷先生はこれを「国家的な自傷」と捉えます。
つまり、白人社会が抱える深い罪悪感──先住民の虐殺や奴隷制度、植民地支配──それを直視できないまま、過剰な方向へ振れているのです。
「私たちに移民を拒む権利があるのか」
「私たちも不法にこの地を奪ったのではないか」
こうした自己懺悔が、彼らの判断力を奪い、国全体を鬱状態にしています。
一方で、トランプ氏の「アメリカ・ファースト」は、その反動としての躁状態です。
「我々こそ正義であり、神に選ばれた民族だ」と叫ぶとき、人々は再び天使の幻覚を見ることができるのです。
善と悪の極端な往復。まさに個人の躁鬱病が社会全体の構造として現れているのです。
そしてその根底には、「善か悪か」というキリスト教的二元論が横たわっています。
第三章 日本が示す「中庸」と「水に流す」知恵
この極端に振れる社会に対し、日本にはまったく異なる価値観があります。
それが「水に流す」という文化です。
対立や過去の恨みを断罪せず、共に頭を下げて、心を新たに歩み出す。
東郷先生はこれを「善悪二元論の外に立つ文化」とされました。
その典型が、江戸で幕府が意図的に拓いた「江戸っ子文化」です。
喧嘩しても翌朝には「おう、おはよう!」と笑い合う。
そのキップの良さと明るさ、そして切り替えの速さは、実は、社会を安定させた日本的知恵だったのです。
「法」という字に込められた古代の意味を紹介します。
「法」の旧字は「灋」で、「怪物を水に流す」ことを意味する象形です。
ここから、「悪しきものを流して社会の調和を保つ」という姿勢が伺えます。
聖徳太子の十七条憲法も、「悪しきものを流して社会の調和を保つ」、そこに「和を以て貴しとなす」の精神があります。
争いを止め、憎しみの連鎖を断ち、心を清めて新たな“和”を築く。
それが「水に流す」の本義であり、人類が再び共鳴を取り戻す鍵です。
結び──「善悪を超えて、響き合う文明へ」
善悪の世界観の中では、対立と報復が永遠に繰り返されます。
キリスト教徒とユダヤ教徒の争いが二千年続いているように、「正義」という言葉が暴力の免罪符になってしまうのです。
しかし日本には、「水に流す」という文化的治癒法があります。
これは単なる寛容ではなく、“共鳴”を取り戻すための智恵です。
戦後80年、世界が再び混乱する今こそ、日本のこの文化が必要とされています。
自らを責め続ける西洋の「鬱」を癒やし、正義を掲げて突進する「躁」を鎮める。
その中庸の道を歩む文化こそ、共鳴文明への道標となる――。
今回の対談を通して、その確信を新たにさせていただきました。
結語
戦争で奪われたものを嘆くだけでなく、そこから何を学び、どんな響きを世界に届けるか。
日本人の「水に流す」心こそ、世界の認知の混乱を癒す最初の一滴です。



