差別は“悪”だと決めつけることで、かえって新たな差別が生まれる──。その構造を認識のズレとして捉え直し、日本文化が持つ「くくり直し」の精神を鍵に、対立を超える道を探ります。
◉ 差別を“悪”と決めつける危うさ──善悪二元論の罠
本対談では、「反差別」によってかえって差別が助長されている現実に注目します。
ある子どもが親の教えで“見知らぬ人は危険”と信じ、好意的な他人を「誘拐犯」と誤認したとします。
もう一人の子どもがその人を「親切な人」と認識していた場合、互いに相手の態度を“差別”と見なす構図が生まれます。
これは、認識の違いがすれ違いを生み、善悪のラベルがそれに固定された結果です。
つまり「差別をする人は悪人だ」という固定観念が、認識のずれや誤解をすべて“悪”と断罪し、新たな対立の火種を生んでいるのです。
◉ 差別の本質は“認識の歪み”──心の病としての偏見
差別とは、相手に対する認識の“違い”や“歪み”から生まれるものであり、それ自体が善悪の問題ではありません。
そして認識の歪みは、過去のトラウマ、教育、宗教的戒律、文化的背景、さらには“善悪中毒”とも言える思考癖によって形成されます。
この“歪み”を修正する唯一の手段は、相手を理解し、認識を新たにすること。
しかし、それには時間と手間がかかり、現代社会の中ではなおざりにされがちです。
けれども、AIやテクノロジーによって生産活動が代替されるようになった今こそ、心の健康や認識の修正にこそ社会のリソースを使うべきだという提案がなされました。
◉ 日本文化の力──“くくり”の精神で対立を越える
後半では、日本書紀に登場する「菊理媛神(くくりひめのかみ)」の話が紹介されました。
夫婦の間で深刻な決裂が起きた場面に現れ、言葉にならない言葉で両者を“くくり直した”この神の存在は、あらゆる対立を受け止め、再出発へと導く象徴です。
この“くくり”こそが、日本文化の本質的価値観であり、現代の分断や対立に必要なのは「正しさの押し付け」ではなく、「認識の包み直し」だという結論に至ります。
また、東郷氏が紹介したように、日本には古来より同性愛や性表現に対する寛容な文化が存在しており、明治期以降の西欧的キリスト教思想によって“悪”とラベリングされたことが差別の温床となった背景も語られました。
🎌 まとめに代えて
差別問題を“戦い”の構図から“癒しと理解”の構図へと切り替えること。
それこそが、これからの時代に求められる「日本的な心のくくり直し」であり、善悪を超えて人と向き合う力です。
ともに笑い、傷つき、学び合いながら、「みんなが安心して楽しく生きられる社会」を目指すための、第一歩となる対話でした。
