日本の建国を祝う「建国記念の日」は、もともと「紀元節」として祝われていました。しかし戦後GHQの政策により廃止され、復活の際には「建国記念日」としてではなく曖昧な表現が採用されました。その背景と意義を探ります。

「建国記念の日」と「建国記念日」の違いとは?

2月11日は「建国記念の日」として国民の祝日に定められています。しかし、なぜ「建国記念日」ではなく「建国記念の日」なのでしょうか。その名称の違いには、日本の戦後史に深く関わる背景があります。もともと2月11日は「紀元節」として、日本の建国を祝う日とされていました。これは、『日本書紀』に記された神武天皇の即位の日を基にしており、長年にわたって日本人に親しまれてきた祝日でした。

GHQの占領政策による「紀元節」の廃止

しかし、戦後GHQの占領政策の中で、この「紀元節」は廃止されました。GHQは、日本の国家としての一体性を弱めるために、日本の歴史や伝統を重んじる祝祭日を排除しようとしました。特に「紀元節」は、天皇を中心とした日本の歴史観を象徴するものと見なされ、その存在を認めることが占領政策の方針と矛盾すると判断されたのです。結果として、昭和23年に「国民の祝日に関する法律」が制定された際、2月11日は祝日として復活することはありませんでした。

「建国記念の日」が成立するまでの激しい議論

その後、日本がサンフランシスコ講和条約を締結し、主権を回復した昭和27年以降、「紀元節を復活させるべきだ」という議論が持ち上がりました。建国を祝う日はどの国にも存在し、日本にもそれが必要だという意見が強まったのです。しかし、この動きには大きな反発がありました。当時の社会党を中心とする左派勢力は、「紀元節の復活は戦前の国家主義の復活につながる」として強く反対しました。

さらに、戦後の憲法学者の中には「日本は8月15日に全く新しい国に生まれ変わった」とする「8月革命説」を唱える者もおり、それが国会での議論にも影響を与えました。その結果、紀元節の名称をそのまま復活させることは難しくなり、妥協の産物として「建国記念の日」という曖昧な表現が採用されることになったのです。

「建国記念の日」だけが特異な法律上の扱いを受ける理由

また、法律上も「建国記念の日」だけが他の祝日と異なる扱いを受けています。通常、祝日は法律によって明確に日付が定められていますが、「建国記念の日」に関しては「政令で定める」と記されており、日付が固定されていません。これは、建国の日をはっきりと特定することを避けるための苦肉の策でした。結果として、現在の日本では「建国記念の日」として祝われているものの、それが何を意味するのか、多くの国民にとって明確に理解されているとは言えない状況が続いています。

「建国記念の日」の意義を考える

このような経緯を経て制定された「建国記念の日」ですが、本来の意味を考えたとき、日本の建国を祝うことは決して曖昧にすべきことではないはずです。世界の多くの国では、独立記念日や建国記念日を明確に定め、それを国民全体で祝う文化があります。日本においても、建国の歴史を正しく伝え、未来へとつなげていくことは非常に重要なことではないでしょうか。

戦後80年が経過し、日本は独立国として発展を続けてきました。しかし、祝日一つを見ても、いまだに戦後の占領政策の影響が残っていることが分かります。これからの日本に求められるのは、自国の歴史を正しく理解し、次世代へと受け継いでいく姿勢ではないでしょうか。今こそ、「建国記念の日」の本来の意味を見直し、日本の建国の意義を改めて考えるべき時ではないかと思います。

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