慶応4年3月14日(新暦1868年4月6日)、京都御所の紫宸殿で五箇条の御誓文が公布されました。これは明治新政府の基本方針を示すものであり、特に「広く会議を興し」などの文言には、当時の政治的背景や改革の意図が反映されています。

五箇条の御誓文とは? その制定の背景

1868年3月14日(新暦4月6日)、明治天皇によって京都御所の紫宸殿において「五箇条の御誓文」が公布されました。これは、新政府の基本方針を示したものであり、明治維新の理念を明文化したものです。
御誓文の前には、明治天皇自らが書いた「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」が披露され、国民に向けて天皇の決意が示されました。この文書には、歴代天皇の偉業を継承し、四方を経営し、民を安撫し、国威を四方に広めるという強い意思が記されていました。
このように、御誓文の公布は単なる制度改革の発表ではなく、日本の新しい時代の幕開けを象徴する、重要な国家儀式だったのです。

五箇条の御誓文は、以下の五つの誓約から成り立っています。

一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ
政策決定を公論によって行うことを掲げたこの条文は、もともと「列侯会議ヲ興シ」となっていました。しかし、これは大名たちによる合議制を意味しており、木戸孝允の修正によってより広い議論を目指す形に変更されました。
しかし、「広く会議を興し」としたことで、具体的に誰が議論に参加するのかが曖昧になりました。その影響は現在にまで続き、日本の政治における国民参加のあり方を問い直す要素となっています。

一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フべシ
「経綸」とは国家を治めるための秩序や方針を意味し、この条文は支配者層と庶民が心を一つにして国を運営すべきことを示しています。
「経」という言葉は「たて糸」を意味し、「綸」は「よりあわせた太い糸や組紐」を指します。この比喩は、国を統治するためには縦糸のように秩序が必要であり、それが庶民の暮らしを支えることを示唆しています。

一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
これは、すべての階層の人々が自身の志を持ち、それを全うすることで社会全体が活力を保つべきことを示しています。
個々の努力が社会全体の発展につながるという考え方は、日本独自の精神文化ともいえます。これは単なる個人の自由を意味するのではなく、社会全体の調和の中で個々の能力を発揮すべきだという思想が込められています。

一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クべシ
「陋習(ろうしゅう)」とは、古くからの悪しき慣習を意味します。この条文は、封建的な制度を廃し、公平で普遍的な道理に基づく国家を築くことを示唆しています。
もともと、この文言は五箇条の御誓文には含まれていませんでしたが、木戸孝允が追加しました。明治新政府が掲げた近代化の理念を象徴するものであり、封建制度の廃止や新しい社会秩序の構築を目指す決意を表しています。

一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ
これは、海外の知識や技術を積極的に取り入れ、日本の国力を高めるべきことを示しています。
欧米列強が軍事力や産業で優位に立っていた当時、日本も世界に目を向け、新たな知見を吸収しながら国家の基盤を強化していくべきだという考え方が反映されています。

現代に生きる五箇条の御誓文の教訓

五箇条の御誓文は、明治維新の基本方針としてだけでなく、日本の国づくりにおいて現在でも重要な示唆を与えています。
特に「広く会議を興し」「上下心を一にする」「旧来の陋習を破る」といった考え方は、今の社会にも深く関わる課題を提起しています。
例えば、現代の政治や経済においても、国民の意見がどれだけ反映されているのか、公正な制度が整っているのかが問われ続けています。また、新しい技術や知識を取り入れることで社会を発展させるという考え方は、今なお有効です。

さらに、五箇条の御誓文の背後には、天皇が自ら国民に誓い、共に歩むという姿勢がありました。この精神は、現代においてもリーダーシップのあり方を考えるうえで大いに参考になります。

最後に、五箇条の御誓文が明治時代に発布された背景には、国内外の大きな変化がありました。江戸時代の封建制度から脱却し、国際社会の中で日本が自立するために必要な指針として制定されたこの誓文は、日本が近代国家へと進むための礎となりました。現代に生きる私たちも、この精神を学び、未来へと活かしていくことが求められています。