世界の混乱は、誰かが悪いからではなく、長く刷り込まれた「善悪二元論」という見方に原因があるのかもしれません。東郷潤氏との対談では、聖書解釈の問題から魔女狩り、冷戦、そして共産主義をめぐる誤解まで、歴史の“痛点”を正面からたどりました。結論は単純です。現実から逃げずに見つめ、共同体と市場を賢く組み合わせる。AI時代の新しい公共を描くために、いま必要な視点を整理しました。

Ⅰ.500年のトラウマと「善悪二元論」──宗教誤読が生んだ暴走を直視する

東郷潤先生は、現在の政治的極端化(たとえば米国の二極化)を、欧米が歩んだ約500年の“加害の歴史”を自覚したことによる集団的トラウマとして捉えられました。
自分たちは正しいと思っていたのに、実は深く傷つけてきた・・・その反動が「極から極へ」の振れを生んできたのだ、という指摘です。

ここで鍵になるのが「善悪二元論」。
何事も“善か悪か”で裁断すると、原因の特定が不可能になり、現実直視を避けて思考停止に陥ります。
宗教史に触れつつ、西洋社会が魔女狩りの大量犠牲や奴隷制度の長期化してきた背景には、聖書テキストの「誤読」と、それを「恐怖」に結びつけて扱ってきた文化背景があると整理されました。
だからといって聖書や信仰を全否定せよ、という話ではありません。

問題は「善悪フレーム」で断罪を重ねることにあり、そこから抜けない限り、悲劇は形を変えて繰り返される・・・これが第一の論点です。

Ⅱ.「共産主義=悪」なのか──思想のエッセンスと二元論の罠を分けて考える

次に議論は共産主義へ。
東郷潤先生は、共産主義のエッセンスを「みんなで作り、みんなで分かち合う」と極めて素朴に定義されます。
この中核だけを見れば、共産主義にも、日本の村落共同体や相互扶助の伝統に似た善性があることがわかります。
実際、国鉄や郵政、水道といった“生存に直結する基盤”は、公(共同)で担う方が社会的便益が高い場面が多いからです。
そう考える素地は日本社会に元々あったものといえるのです。

一方で、現実の20世紀は、善悪二元論に飲み込まれた結果としてのイデオロギー対立(冷戦)と、ソ連国内の苛烈な弾圧や飢餓を生みました。
思想そのものより、運用時に、共産主義が二元論のなかで回収され、相手を「悪」とみなして破壊する構図になりました。
また共産主義の中においても、マルクス自身が善悪二元論を批判していたにもかかわらず、その言葉遣い(「宗教は人民のアヘン」など)が結果として二元論の炎に油を注ぎました。

要は、思想の良否と、善悪二元論に回収される運用の問題を区別しないと、議論が過激化して不幸な結果しか生まないのです。

Ⅲ.新しい公共を設計する──共同体×市場×AI時代のバランス

では、これから何を為すべきか。
教条主義は対立の激化を招きます。
教条ではなく運用設計が要るのです。

たとえば、生命線(水・食・交通・通信など)は公共の責任で安定供給し、不公平を抑えることが必要です。
一方で、個人や企業の創意が活きる領域は、挑戦できる自由度を確保すべきものです。
その意味で、日本はもともと“ハイブリッド”が得意で、村落共同体の相互扶助と商いのダイナミズムを併存させてきた歴史を持ちます。

AIが雇用構造を変える時代には、新たな社会的役割の創出が不可欠です。
対談では、紛争や摩擦を緩和し、対話を設計する専門家「ソーシャルマスター」という概念にも触れました。
警察や裁判の前段で、人と人の齟齬を解く“緩める技術”を制度化する。
これは、二元論に流れがちな社会を“調律”する仕組みです。

現実から逃げず、原因を特定し、必要な領域に共同体的発想を取り入れ、同時に挑戦の自由を守る。
危険なのはイデオロギーではなく、善悪二元論に呑まれ、現実を見なくなる姿勢にあります。

【所感】

「一燈照隅、萬燈照國」という言葉があります。
ひとりひとりの小さな現実改善の積み重ねが、AI時代の公共を形成します。
制度は人の心の映し鏡だからです。
それを思うと、神社の御神体が「鏡」であることにも納得です。

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