原爆はなぜ広島と長崎に落とされたのか。投下候補地の選定理由、軍事的・政治的意図、実験説を検証し、日本人が受け継ぐべき平和への誓いを語ります。
- なぜ広島と長崎だったのか──候補地選定の背景
1945年8月6日、広島に、9日には長崎に原爆(当時の呼称では「新型爆弾」)が投下され、20万人以上が命を失いました。国際法上、一般市民を狙った攻撃はジェノサイドにあたり、許されない行為です。それにもかかわらず、なぜこの2都市が選ばれたのでしょうか。
アメリカは当初、京都、広島、横浜、小倉、長崎の5都市を候補としていました。京都は千年の歴史と文化遺産を理由に、アメリカ陸軍長官スティムソンが強く反対し、候補から外れました。広島は軍事施設を有する都市であり、川の三角州に広がり山に囲まれた地形が爆風効果の測定に適していた上、ほとんど空襲を受けておらず、被害状況を明確に把握できる「実験条件」が揃っていました。
一方、長崎は当初第4候補でしたが、第3候補の小倉は当日雲が多く視認できなかったため、急遽変更されました。結果、広島にはウラン型「リトルボーイ」、長崎にはプルトニウム型「ファットマン」と、異なる種類の爆弾が投下され、威力や被害の比較が行われたのです。これは明らかに「実験的意図」を含んでいました。
- 投下の真の目的──懲罰・実験・ソ連牽制
原爆投下には複数の目的がありました。第一に「懲罰的意図」です。アメリカは真珠湾攻撃を理由に、日本への報復を正当化し、国民世論を支持に誘導しました。
第二に「実験的意図」です。異なる2種類の爆弾を短期間で使用し、都市構造や人体への影響、放射線被害の経過を詳細に調査しました。戦後、アメリカは広島と長崎に調査団を派遣し、膨大なデータを収集しました。
第三に「ソ連牽制」です。ソ連は対ドイツ戦でアメリカから巨額の支援を受けていましたが、終戦後は返済を免れるために対立姿勢を強めると予想されていました。アメリカは原爆の威力を見せつけ、戦後秩序で優位に立つ狙いがあったとされます。特にソ連参戦(8月9日)直前の長崎投下は、この政治的意図を色濃く示す出来事でした。
- 日本人が選んだ「被害者根性を持たない」道──平和への祈りと誓い
戦後、日本はアメリカに対し原爆被害の賠償請求を一度も行っていません。それは単に占領下にあったからではなく、「自らを被害者として振る舞うことを潔しとしない国民性」が背景にあります。
日本人は原爆の悲劇を「次の世代へ平和を受け継ぐための教訓」として捉え、被害の事実を感情的に叫ぶよりも、「二度と戦争を繰り返さない」という誓いを大切にしてきました。
平和は勝者がもたらすものではなく、失われた命の沈黙が教えてくれるものです。原爆で命を落とした人々は、生き残った私たちに「安心して暮らせる平和な国を築け」と託しているのです。私たちはその声を胸に刻み、戦争の惨禍を未来に渡さないため、現実的な平和の体制を整える責任があります。
広島と長崎の犠牲者20万人の共通する願いは、平和の継続と命の尊厳の確保です。それを守ることこそ、現代を生きる私たちの最大の使命なのです。
