本対談では、植民地主義を支えた「善悪二元論」と人種差別の構造を分析。聖書解釈の誤りや恐怖心理が白人社会を暴走させ、日本が人種平等を掲げたことがいかに脅威となったかを明らかにしています。

善悪二元論と500年の支配構造

今回の対談は、前回に続き「大東亜戦争とは何であったのか」をテーマに深掘りする内容です。
焦点となったのは、500年にわたって続いた植民地主義の背景にある「善悪二元論」と、その心理構造でした。
西洋社会では、異教徒や有色人種を「悪魔」と見なし、攻撃や支配を正当化してきました。
魔女狩りの狂気と同時期に、先住民を悪魔視して虐殺した歴史は、その典型です。
恐怖を「神の呪い」と結びつけ、妄想の中で暴走していった人間心理が、長期にわたり修正されることなく続いたのです。

善悪二元論は、人間を「正義か悪か」に切り分け、誤った認識を補強し続けます。
敵を悪魔と断じて攻撃し、やがて現実に気づけば「自分こそ悪魔だ」と思い込む。
しかしその罪を認めることを恐れ、居直りの心理から「相手が劣等民族だったのだ」と新たなラベルを貼り直す。
この置き換えこそが「善悪中毒」と呼ぶべき心の病理であり、人種差別や植民地主義を延命させたのです。

恐怖と謝罪の文化差──日本と西洋

対談では、西洋と日本の文化的違いにも光が当てられました。
日本文化では「ごめんなさい」と謝罪し、関係を修復することが可能です。
しかし西洋社会では謝罪が「罪の告白」となり、訴訟や処罰につながるため、認めることが極めて困難です。
そのため「誤りを認める」代わりに、対象を新たに悪や劣等として位置づけ直す現実逃避が繰り返されました。
インディオを悪魔とし、次に黒人を劣等とし、さらにアジア人へと差別が拡大していく。
攻撃の正当化が連鎖的に広がる構造は、まさに500年続いた「人間の心の歪み」だったのです。

さらに恐怖心は「悪魔崇拝」にもつながりました。
自らを悪と認めざるを得ない状況では、どうせ地獄に落ちるのなら悪魔に仕えるほうが得だと居直る心理が働きます。そこには宗教的誤読や、恐怖に基づいた妄想が深く関与していました。

日本の登場と人種平等決議案の衝撃

こうした支配の構造の中で、日本は異色の存在として現れました。
1919年のパリ講和会議における「人種平等決議案」は、500年にわたり続いた欺瞞を根底から揺るがすものでした。
有色人種の中で初めて近代国家を築き、世界に対して「人は皆平等である」と主張した日本の姿勢は、白人社会にとって「自分たちが悪魔である」と認めざるを得ない恐怖そのものでした。
富を失う恐怖以上に、自らが地獄に落ちるという宗教的恐怖が、一般の白人たちをも震え上がらせたのです。

結果として、日本は「脅威」「悪魔」として徹底的に攻撃される対象となりました。
日英同盟の破棄、海軍力制限、国際舞台での孤立化など、日本が追い詰められていく道筋は、すでにこの時点で決定づけられていたのです。
東郷先生とは、この時点で「日本と白人連合の対決は不可避となった」との見解で一致しました。

心の動きが歴史を決める

最後に強調されたのは「歴史の根底には心の動きがある」という視点です。
百人一首が示すように、人間の心は時代や国境を超えて共通しています。
恐怖や欺瞞が暴力を生み、逆に勇気や共感が平和を築くのです。
500年にわたり人類を狂わせた善悪二元論の罠を理解し、そこから脱することこそ、これからの世界を築く鍵である──今回の対談は、その核心に迫るものでした。

【所感】
500年続いた植民地主義は、力や制度だけでなく、人の心に潜む「善悪二元論」と「恐怖の心理」から生まれていた――この視点はきわめて示唆的だと感じました。歴史は戦争や条約の羅列ではなく、人間の「心の動き」の積み重ねである。その当たり前の事実を、私自身あらためて深く受け取りました。

とりわけ印象に残ったのは、「誤りを認められず、居直りの心理から悪を塗り替えてしまう」という指摘です。これは過去の白人社会に限らず、現代社会や私たちの身近な関係にも通じます。誰かを即座に「悪」と断じてしまう心の仕組みを理解することは、いまを生きる私たちにとって欠かせない学びだと思います。

そして「心が歴史をつくる」という締めくくりは、まさに希望につながります。恐怖と妄想が戦争を呼ぶのなら、共感と響き合いは平和を育てる。これは、私が大切にしている「共震・共鳴・響き合い」の思想とも響き合い、深く腑に落ちました。

多くの日本人は「戦争の反対は平和」と考えがちですが、日本語の「平和」は幕末以降の翻訳語であり、江戸時代までは「和平」と呼びました。「和平」は「和やかで争いのない平らな状態」を意味します。一方で、英語の Peace の語源であるラテン語 pax は「パクス・ロマーナ」「パクス・アメリカーナ」に象徴されるように、強大な武力による秩序維持の含意を持ちます。ゆえに「平和=Peace」には、そもそも武力秩序の前提が埋め込まれているのです。

しかし、縄文以来の日本文化は、争いを好まず、和を尊びます。日本が「戦わざるを得なかった」理由は、単なる利害対立にとどまりません。人類を凶暴化させてきた心の錯覚――善悪二元論の暴走――に、正面から向き合うという意図が確かにあったのです。今回の対談は、その一点を鮮明にしてくれたと感じています。そして、これは現代を生きる私たちにとっても、とても重要な示唆を与えてくれるものです。

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