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1 古墳はなぜ生まれたのか
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古墳がなぜ造られたのかについて、このブログを通じて何度も「あれは、荒れ地を開墾して田畑を作ることによって生じた土砂の盛り土です」と述べさせていただいています。
これは、何も私が申し上げている新説でもなんでもなくて、戦前は、むしろそれが世の中の常識でした。
地元のお年寄りに聞けば、誰でも知っていた、あたりまえの話でしかなかったのです。

実際、一昔前は、市道とか町道、あるいは農道などの道路は、近隣のおじさんたちが総出で手作りで道を造成していました。
もう少しまえの時代になりますと、いわゆる新田と名前が付いているところなどは、そこに住む農家の方々が、みんなで協力しあって、荒れ地を切り開き、開墾して、田んぼにしていました。

そうやって、人力で、自分たちの力で土地の造成をしてきた人達にとって、田んぼを造ったり、水路を造成したりすれば、そこに大量の残土が出るというのはあたりまえのことでしたし、またそうした残土は、計画的にどこかにきちんと盛土しないと、そもそも土地が拓けない。
くわえて盛土は、計画的にきちんと盛土しなければ、土を盛っただけでは弱いから、大雨で降ったら、土砂が流れて大変なことになってしまうわけです。
だから、盛土の仕方も、ただそこに土を盛れば良いというものではなくて、そこには長年培われた「盛り方」があったし、土砂が流れないための工夫もあったのです。

そうした工事を、自分たちで協力しあってやってきたという経験をもった昔のおじさんたちにとって、そもそも古墳は平地にしかないわけですし、その姿、形、古墳の周囲の土地の状態などを見れば、古墳が「土地を拓くために計画的に残土を盛土したもの」であるということは、経験的に、体感として実感できたものだったのです。

そもそも土地というのは、遠くから平地に見えても、ものすごくデコボコしているものです。
さらに木が生えている。大きな岩もある。
水田にするためには、そんなデコボコ地を(水田は水を張るから)まっ平らにしなければならないのです。
しかも、水はけも良くしなければなりません。

たとえば、表土を取り払ったら、その下から粘土層の土が出てきたなどという場合には、せっかく土地を平らにしても、それだけでは田にも畑にもなりません。しかも水はけが悪い。
これでは作物が稔らないし、根腐れを起して作物がダメになってしまいます。
つまり、土地を開墾して田にするということは、ただ土地を平らにすれば良いというだけでなくて、(もちろん幸運にもそういう土地もあったかもしれないけれど、多くの場合)土地を掘り返し、耕し、土壌の改良作業まで行って、そこではじめて田畑になるのです。

しかも、田畑には水路の敷設が必要です。
水路があるということは、土地が低いということです。
そして土地が低ければ、大雨のとき、大水が出て、作物は全部やられてしまいます。
これを防ぐための手当も必要なのです。
つまり、土地の開墾というのは、それ自体が、長い年月をかけた経験の蓄積の上からでしか成り立たない事業なのです。

さらに大勢で何年もかけて土地を開墾するとなれば、役割分担、出来上がった土地の分配、共同での道具や飯の手配、作業日程管理など、これらは、ただ人が集まればできるというものではなくて、そこには大きな計画性が必要です。
要するに、土地の開墾というのは、それ自体が高い技術の産物なのです。
しかも、ものすごくたいへんな、汗をかく仕事です。

学者の先生たちは、自分では体を動かして働かないから、そうした苦労がわからない。そうした工事の複雑ささえ、理解しようとしない。
ただ頭ごなしに、「古墳は豪族たちが権威を誇示するために民衆を使役して強制的に作らせた墳墓である」などという珍説を唱えているだけです。

どこにそんな証拠があるのでしょうか。
豪族が自分の墓を造るために民衆をムチでしばきあげて使役した、そんな証拠があるのでしょうか。
肝心のムチさえ、これまで一度も出土していないのです。
お墓があるではないかというのかもしれない。
けれど全然逆なのです。

豪族たちが自分の墓を作るために民衆を使役して盛土したのではなくて、その豪族さんを中心に、みんなで努力して新田を開墾し、結果として残土処理のための小高い丘(盛土)ができたから、そこにあとから中心者となってくれた豪族さんをお祀りしたのです。
そこにあるのは、「あの人のおかげで、こうして広い土地ができ、田んぼができ、お米がたくさんとれるようになって、みんなが腹いっぱい飯が食えるようになった」という感謝です。

そのどこがどうしたら「豪族が自分の墓を造るために民衆を使役した」となるのか。
まるで「あべこべ」です。

ですから、私などが子供の頃は、お年寄りたちは、「偉い学者さんというのは勉強ばかりしているから、頭が変になるんだねえ」と、可笑しそうに話していました。
学者さんたちの「豪族使役説、古墳墳墓説」などは、ただの奇説、珍説の類(たぐい)でしかなかったのです。

ところがいつの間にか、そんな「たわごと」にすぎないご高説が、いまではすっかり定説どころか常識化してしまいました。
日本人が土木作業をしなくなったからと言ってしまえばそれまでですが、あまりにも低レベルな話に、むしろ驚いてしまいます。

古墳といえば、我が国最大の古墳が仁徳天皇陵ですが、以前、大林組がこの御陵を造るのに、どれだけの労力がかかるか計算しました。
結果は、完成までに15年8ヶ月、必要人員が延べ796万人です。

仁徳天皇のご治世の頃の日本列島の人口は全国でも4〜500万人程度です。
そんな時代にどうやって796万人も動員したのか。しかも工期は約16年です。
その16年の間、民衆が、ひたすらムチでぶっ叩かれながら古墳造りのための強制労働をさせられていたというのなら、その人達は、使役させている豪族たちも含めて、いったい16年間、何を食べて生きていたのでしょうか。

その間、民衆は老若男女の区別なく、赤ん坊まで借りだして、盛土していたとでもいうのでしょうか。
そしてそこまでして民衆全員を使役しても、まだ人口が足らないことを、いったいどのように説明するのでしょうか。

そもそも、仁徳天皇といえば、「民のカマド」の話で有名な、たいへんに慈愛に満ちた天皇として知られる歴史上の人物です。
その慈愛に満ちた「仁徳」というご尊名と、その業績と、古墳制作のための民の強制労働という話は、あきらかに矛盾します。
その矛盾を、どのように整合させるのでしょうか。

仁徳天皇は、日本書紀によれば、難波の堀江の開削、茨田堤(まんだのつつみ:大阪府寝屋川市付近)の築造(日本最初の大規模土木事業)、山背の栗隈県(くるくまのあがた、京都府城陽市西北~久世郡久御山町)の灌漑用水、茨田屯倉(まむたのみやけ)設立、和珥池(わにのいけ、奈良市)、横野堤(よこののつつみ、大阪市生野区)の築造、灌漑用水としての感玖大溝(こむくのおおみぞ、大阪府南河内郡河南町辺り)の掘削など、広大な田地の開拓を行った、たいへ失礼な言い方ですが、かまどのお話よりも、むしろ仁徳天皇はいわば「土木(どぼく)天皇」といってよいくらい、民のための広大な土木事業を営んだ天皇です。

そしてそれだけの広大な土木事業を営めば、結果として必ず残土が出ます。
その残土は、いったいどのように処分するのでしょうか。
いまならダンプカーで港湾の埋め立てに用いたりしますが、大昔にはダンプなんてありません。
結局、開墾地内に計画的に盛り土するしかない。
わかりきったことです。

ちなみに仁徳天皇陵は、周囲が堀になっています。
盛り土は、土が柔らかいですから、雨が降れば土砂が流れます。
つまり付近の田畑が、土砂で埋まってしまいます。
これを防ぐために周囲を計画的にお堀で二重に囲んでいます。
実に合理的な対処法です。

仁徳天皇陵もそうですが、すべての古墳は平野部にあります。山間部にはありません。
平野を開墾するといっても、原始のままならでこぼこです。
それを水田にするなら、水田は水を引きますから、全体が真っ平らでなければなりません。
また水を引くための水路も必要です。水路には堤防も必要です。そうしなければ大雨のときに水害が出ます。
そうした被害を未然に防ぐためには、計画的な土地の開墾と、指揮者、労働者が必要です。
ただ耕せば良いというものではないのです。
そして広大な土地の開墾は、ものすごく年月がかかります。
しかも開墾しただけではだめで、そのあとの土地のメンテナンスが必要です。

いまでも、一級河川と呼ばれる川には堤防がありますが、そこには国土交通省の役人さんが、自転車で毎日堤防の検査監督をしています。これは猛暑でも酷寒でも大雨でも続けられています。
そういう地道な保護があってはじめて、土地は活きるのです。

けれど人には寿命がありますから、そんな工事を計画し、全体を統轄してくれた大将にも、死が訪れます。
全部、大将が面倒見てくれたから、広い田畑ができたのです。
大将がいてくれたから、安全に土地が使えたのです。みんなが腹一杯飯が食えたのです。
そんな大将に感謝するとしたら、大将のお墓はどこに築くでしょうか。
広大な田畑を見渡せる、盛り土のてっぺんではないでしょうか。
古墳が墳墓となった理由は、そこからきています。
ですから古墳によっては、墳墓ではない古墳もたくさんあります。

たとえば仁徳天皇陵は、もともと墳墓とすることだけを目的とした御陵ではないことは、仁徳天皇陵のすぐ近くにある他の古墳がこれを証明しています。
仁徳天皇陵のすぐ脇に、いたすけ古墳とか御廟山古墳といった前方後円墳がありますが、その古墳が誰のお墓であるのか、いまだにわかっていません。そもそもお墓であるかどうかさえもわかっていません。
要するに、墳墓を目的に造成されものではないからです。
もともとが工事の結果としての盛り土で、結果としていちばん大きな盛り土に、みんなが仁徳天皇に感謝して、そこを御陵にしたに他ならないからです。

ちなみに、小さな盛り土を近くに造成したことにも、ちゃんと意味があります。
水田地帯は、大水に弱いのです。
水が出たら、みなさん、どうしますか?
高いとろろに避難しませんか?
一番大きな御陵を天皇陵にしてしまったら、そこは避難所には使えません。
ならば、その周囲に、こぶりの盛り土を造っておき、万一の場合の避難所にする。
実に合理的です。

そして、冒頭のご質問です。
では、副葬品の埴輪(はにわ)は、何のために埋められたの?、人柱ではないの?というご質問です。

古墳がもともとは大規模土木工事のために、計画的に築かれた盛り土であり、そこに土木工事の大将のお墓を作ります。
なんのためでしょうか?

広大な荒れ地を開墾し、みんなのために尽くしてくれた大将がいれば、感謝の心を持つのが日本人というものです。
お世話になった大将に、こんどは、ずっとその農地を守ってもらいたいと思う。これが人情です。
「大将、生前はお世話になりました。こうして田んぼがひらかれ、オラたち感謝にたえません。
大将、オラたち、これかもずっと、この田畑を大事に守って行きます。
そしたら大将、そんなオラたちが災害に遭わないように、作物に虫がついたり、作物が病気にならないように、今度は、墳墓の上からずっとオラたちを見守っていてくだせえ」

それは、大将が、こんどはあっちの世界で大将になって、病魔や厄災からみんなを守ることです。

「そんなありがたいことをしてくださるなら、おひとりっちゅーわけには、いくめえよ」
「だったら、大将に兵隊さんを付けてあげるべえ」
「んだな。じゃあ、どうせなら、たくさんの兵隊さんがいたほうが良かっぺな」

それで副葬品にしたのが埴輪です。
ですから埴輪は、あの世の神様の兵隊さんたちです。
だから、生きた人、秦の始皇帝の兵馬俑(へいばよう)の兵像のようなリアルな像ではなくて、のっぺりとした、ちょっとお化けのようなお顔をされています。
あきらかに生きた人とは区別した、あの世の神様の兵隊さんたちなのです。
その「あの世の兵隊さん」たちは、とってもユーモラスなお顔をされています。
これを作った人々の、あたたかで、おおらかで、やさしい気持ちが伝わってくるかのようです。

埴輪は、人柱の代替品ではありません。
黄泉の国に行った新田開墾の大将(大きな古墳では天皇)のための、あの世の軍団であり、最初からそういう、この世のものとは異なる設定のものであったのです。

そしてこれまた、わたしたちの曾祖父の時代くらいまでは、古墳の近くで代々生活している人たちにとっては、およそ常識のことでした。

埼玉の行田市には「さきたま古墳群」がありますが、そこは石田三成が忍城(おしじょう)の城攻めをやったところとしても有名です。映画「のぼうの城」になりました。

この城攻めのとき、石田三成は近隣にある古墳群の古墳を取り崩して堤防を築きました。
石田三成は教養人です。
古墳がお墓なら、そんな乱暴なことはしません。
古墳が盛り土と知っていたから、これを用いました。

いまでもこのときに作られた堤防が残っていますが、その土は古墳と同じものだし、堤防から埴輪の欠片などが出土するそうです。
埴輪が、田畑を守る一種の飾り物だったからこそ、三成は、平気でこれを取り崩したのです。

そんな古くからの常識を破壊したのが、戦後の学者さんたちです。
学者さんたちは、古墳は豪族たちの権力の象徴であり、だから古墳は墳墓であり、副葬品としての埴輪は、人柱の代替品であり、もともとは人間を埋めていたのだ、といいます。

では、お伺いしたいのです。
副葬に人柱を立てたというのなら、その人骨が並んだ古墳を見せてくださいと。

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2 古墳はなぜ無くなったのか
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さて、その古墳。
時代とともにだんだん大きくなり、そして小さくなり、最後にはなくなってしまいました。
これはいったいどういうことでしょうか。

  古墳の推移


上の図をみるとわかるのですが、古墳は西から生まれ、東へと移動して行きながらだんだんに大きくなり、それがさらに東へと移動していくなかで、だんだんと小さくなって、最後にはなくなっています。
その理由です。

これを考えるにあたっては、2つのことを頭に先に入れておく必要があります。
ひとつは、古墳が誕生する以前は、集落社会であり、田んぼも集落前の小規模なものでしかなかった、ということです。(下図)

  菜畑遺跡を復元したジオラマ
  日本最古の水田(紀元前7000年〜、縄文時代)

ところが古墳が築造される大和朝廷の時代になると、広大な土地が開かれ、開墾されるようになります。
つまり、大規模な土地の造成と灌漑工事が行われるようになるわけです。
そしてこのことが、つぎの2つめです。
それは、「技術は蓄積によって進化する」ということです。

つまり、大規模造成地の開墾は、技術の蓄積があって、はじめて可能になるということです。
もっというなら、残土処理としての古墳築造の技術が誕生したことによって、大規模な開拓が可能になり、そしてその大規模開墾事業の事業規模がだんだん大きくなるにしたがって、古墳も徐々に大型化していった、ということがわかるのです。

ところがその古墳は、大型化したあと、今度は逆に小型化し、最後にはなくなってしまいます。
なぜでしょうか。

これも答えは、実は容易です。
大規模な土地の造成が行われるようになると、目的は田んぼつくりですから、田んぼは水を使いますので、当然、水路も切り開かれます。

そしていったん水路ができてしまえば、次に必要になるのは、洪水対策としての河川の堤防工事です。
つまり、水路つくりのために掘った土を、以前は盛土にしていたのですけれど、こんどは、その土を、水路を使って運搬し、河川の堤防工事に活かすようになっていったのです。

こうなると、大量な土が必要になりますから、こんどは、盛土(古墳)どころか、山を切り崩して、そこから河川を使って土を運んでくる、といった技術まで生まれてきます。
そしてそうした技術がどんどん進化することで、気がつけば、東京の江戸川や、玉川上水、あるいは神田川のような人造河川さえも築かれるようになっていくわけです。

要するに、土地を開梱した際の残土が、水路が開かれることによって、堤防工事や護岸工事に使われるようになり、結果として、古墳が必要なくなった。
だから、古墳はだんだんに小さくなったし、最後にはなくなってしまったのです。
それだけのことです。

先生によっては、古墳がなぜなくなったのか、という質問に対し、「ブームが去ったから」などと、意味不明の回答をしている方もあるやに伺いましたが、そもそも「豪族たちがムチで使役して〜」という前提が間違っているのです。

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3 仁徳天皇と茨田堤(まんだのつつみ)
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さて、仁徳天皇の業績のひとつに茨田堤(まんだのつつみ)があります。
これは堤防工事としては、日本初の大規模土木工事です。
この工事に際して、日本書紀に次の記載があります。

 *
どうしても決壊してしまう場所が2か所あった。
工事の成功を期して、それぞれの箇所に一人ずつの河伯(川の神)への人柱を立てることになった。
犠牲に選ばれたのは、
武蔵の住人の強頸(こわくび)と、
河内の住人の茨田連衫子(まむたのむらじのころものこ)であった。
強頸は泣きながら入水していき、衫子はヒョウタンを使った頓知で死を免れた。
結果として2か所とも工事は成功し、それぞれ強頸の断間(こわくびのたえま)、衫子の断間(ころものこのたえま)と呼ばれた。
 *

ここで面白いのは、人柱をたてるということが、本当に異常事態であったということが、この短い抄の中で明確にわかることです。
しかもその人柱に際して、ひとりはお亡くなりになってしまったけれど、もうひとりは頓智で生き延びた。
そしてその両方の人の名を懸賞して、いまなお、地名にそれを刻んでいるということです。
どこまでも人命を尊重している姿勢が、ここにはっきりと伺えます。

こうしたことは、日本がウシハク国であり、仁徳天皇が民をムチでしばきあげながら強制労働させて自分の墓を造るような大君なら、ありえないことです。
あたりまえのことですが、大規模土木工事の「技術」は、一朝一夕に出来るものではありません。
長い年月にわたる高度な築造技術の蓄積がなければ、絶対になし得ないことです。
それだけの技術が開発され定着するには何代にもわたる土木技術の積み重ねがなければなりません。
そしてこうした大規模な土木工事が、誰のために誰がするものなのかといえば、まさに地域に住む民衆のために民衆のリーダーがするものです。

リーダーのもと、みんなが納得して力を合わせるのでなければ、土木工事なんてできるものではありません。
公共工事としての土木事業は、水害から多くの人々の命と暮らしと田畑の作物を守ります。
それは要するに、みんなの暮らしが安全で豊かになる、それをみんなで納得して行なうということです。

それをみんなが納得して行う。
それが「シラス」国というものです。

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4 世界遺産登録に反対する
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平成20年に、文化庁が仁徳天皇陵を世界遺産に推薦する構想を発表しました。
これは実は仁徳天皇陵だけではなくて、履中天皇陵・反正天皇陵・仲哀天皇陵・応神天皇陵・允恭天皇陵などのある「百舌鳥古墳群」なども含まれます。
文化庁のこの発表は、もともとはその前年に大阪府・堺市・羽曳野市・藤井寺市が、世界遺産の国内暫定リストへの追加を求める提案書を提出したことを受けたものです。

「我が国の誇る御陵が世界遺産になるというのなら、結構な話じゃないか」と思うのは、浅はかというものです。
実は、この提案の背景には、とんでもない「ウラ」があるのです。

というのは、世界文化遺産に登録するためには、学者達による審査が必要になるのです。
その審査とは何かというと、「仁徳天皇陵であり、仁徳天皇のお墓というのなら、その墓をあばいて本当にお墓であるかどうかを調査せろ」という、とんでもない「条件付き」になっているのです。

要するに文化財としての実態があるのかどうかを、左巻きで「古墳=豪族たちが民衆を強制的に使役して奴隷のようにこきつかって自分の墓を築かせた」としか考えようとしない、もうしわけないけれど私に言わせていただければ「頭のおかしな自称学者」たちが、学生たちを引き連れて古墳を掘り返し、「墓あばきをさせろ」というのが、その背景にあるのです。
そしてこのことは、我が国における天皇の権威とその存在を否定したい人たちにとっての標的になっているのです。

これに対し宮内庁は、
「陵墓は単なる文化財ではなく皇室の祖先祭祀の場である。よって静安と尊厳を維持すべきものである」として、断固反対をしています。
当然のことです。

そもそも日本は、天皇を頂点とする君主国なのです。
たかだかできて70年にも満たない日本国憲法にどう書いてあるかがが問題なのではなくて、日本にはどんなに遅くに見積もっても1300年以上の天皇のシラス国としての歴史の重さがあるのです。
そして天皇が神聖にして不可侵の存在であり、その天皇によって、すべての民衆とすべての日本国領土が天皇の「おおみたから」とされることによって、私たちは権力者、民衆を私的に支配し収奪する権力者からの自由を得ているのです。それが日本です。

このことは逆に見たら、よりわかりやすいかと思います。
天皇という権威の存在がなければ、私たちは権力者に私的に支配される私物と化すのです。
その権力者が、たとえ選挙など民主的な方法によって選ばれたとしても、ひとたび権力を得てしまえば、その権力者からみれば、民衆は被支配者であり、権力者の私物です。
権力者は民衆から、財産どころが命を奪っても構わない。なぜなら、私物だからです。

いまの日本には、この日本古来の社会的仕組みを否定する人たちがいます。
なぜでしょうか。
天皇は政治権力を持ちません。単に権威として領土領民を「たから」としています。
政治権力者にとって、民衆も領土も天皇の「たから」だからこそ、自由に私的に支配できない。
民衆のための政治をせざるをえない。民衆のために働かざるを得ない。

それを否定するということは、端的に言えば、否定している人が、ただ自分が権力を握り、多くの民衆を使役し支配し、自由にわがままを通したい(これをウシハクといいます)だけのことだということがわかります。
グローバリズムでも民主主義でもなんでもない。
ただ、支配欲、権力欲に取り憑かれた痴れ者だということです。

天皇陵は、そのシラス存在である天皇と、民衆の君民一体の証(あかし)です。
証だからこそ、聖地なのです。
陵墓公開要求をはじめ、仁徳天皇陵を仁徳天皇陵と呼ばず「大仙古墳」などと呼ぶ運動は、煎じ詰めれば、日本を解体し、日本人の自由を奪いたいという私的な欲望に他なりません。
じつに、傲慢かつ不遜かつ、子供じみた執着というべきものです。

御陵を護るということは、単に御陵を物理的に維持するということではありません。
仁徳天皇の遺徳を通じて、私たちが君民一体という日本の国のカタチを護るということなのです。
だからこそ仁徳天皇陵は「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」として、立入禁止の「聖地」とされてきたのです。
仁徳天皇陵は、単なる古墳ではないし、文化財や観光遺跡とは違うのです。
私たちのアイデンティティの源泉なのです。

「世界遺産になれば沢山の見物客が訪れるから、皇室の宣伝になっていいじゃない」という人もいます。
それこそ自分勝手な自己の利得だけを考えている証左です。
自分がウシハク者になりたいと宣言しているようなものです。

仁徳天皇陵をはじめとしたご皇室の墳墓は、観光地ではありません。
「世界遺産」という名の観光地ではなく、私たち日本人の「聖地」です。
仁徳天皇陵をはじめとする陵墓には、私たちは断固反対しなければなりません。

最後にもうひとつ古墳に関するお話を書いておきます。
今、東日本最古・最大級の古墳である「高尾山古墳」が潰されようとしています。
この古墳は、西暦230年頃に築造されたもので、卑弥呼が埋葬されたといわれる箸墓古墳(奈良県桜井市)よりも古いものです。
全長62.178m、周囲には、幅8~9mの周溝が巡らされ、周溝の底から墳頂までは4.679mもあります。
これは古墳出現期としては全国でも屈指の規模の古墳です。

この古墳が発見されたのは2008年のことで、沼津市中心部と東名沼津IC・国道246号方面を結ぶ都市計画道路「沼津南一色線」の建設のために、その計画線上にあった2つの神社が移転となり、さらに工事を進めようとしたところ、神社の跡地の下から巨大な前方後方墳が出現したのです。

  高尾山古墳近影


ところが沼津市は、この古墳を壊して道路を建設する方針でいます。
そして2016年までに発掘調査を済ませ、2017年から道路工事に着手するのだそうです。

私は、道路工事には賛成です。
ですが、古墳の取り壊しには反対です。
古墳は、その地が開墾された大きな証です。
沼津に「高尾山古墳」があるということは、西暦230年には、このあたり一帯が広く開墾されたということ、そしてその大規模な開拓工事が行われるだけの技術力が、この地にあったことを示している大切な遺構だからです。
これは地域の誇りです。

ちなみにこの古墳も、「埋葬は西暦250年頃」と推定されています。
つまり、古墳ができた時期と、埋葬の時期に隔たりがあるのです。
理由は、上をお読みいただいた方には、もう明らかだと思います。

最後にもうひとつ。
この記事をアップしたあと、非公開コメントで、次のご指摘をいただきました。
「日本書紀の垂仁天皇記の「ノミノスクネと埴輪」のところに、ヤマトヒコノミコトが亡くなっなさい近習の者を集めて、全員を生きたままで、陵のめぐりに埋めたてた。その事に垂仁天皇が心を痛まれて、「これからは、止めよう。」と、そしてノミノスクネが出雲の土部を呼んで埴輪を造らせ天皇に献上し、「これからは、この埴輪を生きた人に変え陵墓に立て後世のきまりとしましょう」と、提案すると天皇は大いに喜ばれた」とあるが、というご指摘です。

日本書紀のこのくだりを読んだらわかるのですが、ここに書かれているのは、できあがった古墳に、偉い人を埋葬する際のしきたりとしての殉死の話です。
つまり、殉死と、古墳が何故できたかの話とは、別な話です。

https://nezu3344.com/blog-entry-2697.html