善悪という言葉は、実は“空っぽの箱”かもしれない。法律・宗教・道徳に縛られた固定観念を見直し、日本人が本来持っていた“思考の自由”と“道”の感覚を取り戻すための深い対話。
◉ 善悪とは何か──“空っぽの箱”に込められた幻想
善悪とは、はたして普遍的なものなのでしょうか?本動画では、「善悪」という言葉に絶対的な定義がなく、人によってそれぞれ異なる解釈がなされている現実を掘り下げていきます。
例えば、「人の命を奪うのは悪いことだ」と言われながら、国家による死刑制度や戦争が存在している現実。動物の命は奪ってもよいのか?法律が定める善悪が「悪法」になることもある。そうした問いにぶつかるたび、我々は「本当にそれでいいのか?」と立ち止まることになります。
さらに、文化や宗教ごとに異なる善悪の定義。キリスト教では「神に従うことが善」、動物愛護の立場では「動物の幸せが善」、戦後の日本では「憲法に沿うことが善」とされるなど、人それぞれ「正しさの物差し」が違います。そのような状況で「善か悪か」という二元論を振りかざせば、議論はすれ違い、分断と対立を生むだけになります。
◉ 善悪二元論の罠──思考停止と命令構造
善悪の定義が定まらないままに「これは悪だ」「戦うべきだ」とする世界観は、極めて危険です。これはまさに命令装置としての「空っぽの箱」であり、「レッテルを貼る」ことによって攻撃が正当化される構造が出来上がってしまいます。
戦争や分断が生まれる根本には、善悪の固定観念があることを、東郷氏は指摘します。特に西洋的な価値観では、正義vs悪、神vs悪魔という構図が支配的で、それが「悪を倒すことこそが善である」という盲目的な行動原理を生んできました。
しかし、日本の伝統的価値観は異なります。「良し悪し」という曖昧さを大切にし、状況や関係性によって柔軟に物事を判断する力がありました。須佐之男命のように、“悪”とされる行動も、やがて大きな善に転じる存在として理解されてきた文化です。
◉ 善悪を超える道──縄文の知恵と未来への選択
1万4千年の平和を築いた縄文文化には、「善悪」ではなく「和」の概念がありました。争いは悪、という単純な発想ではなく、理解と調和が優先されていた時代。これは単なる過去の神話ではなく、現代を生きる私たちにとっても重要なヒントを与えてくれます。
東郷氏は、過去世におけるヨーロッパ的宗教的価値観からの苦しみの記憶を語り、いま日本文化の中で「善悪を超えた世界」を再構築する可能性を示します。「道」を歩むという考え方、人生のマニュアルではなく、自らの魂と向き合いながら歩むという生き方が、善悪の対立を超える鍵になるのです。
そして最後に、私たち一人ひとりが「なぜ善悪を問うのか?」という問いを抱きながらも、マニュアル的な答えに飛びつかず、自らの心に問い続けることの大切さが語られます。善悪を超えたところに、「本当の理解」がある──それこそが、現代社会に必要な視点ではないでしょうか。
