681年3月19日、天武天皇の詔により「飛鳥浄御原令」の制定が始まりました。この法令では、初めて「天皇」の称号が正式に明記され、日本の律令制の基盤が築かれました。本動画では、その歴史的背景と意義を詳しく解説します。

  1. 天武天皇と飛鳥浄御原令の制定

681年3月19日(天武天皇10年2月25日)、天武天皇は「飛鳥浄御原令」の制定を命じる詔を発しました。この法令は、日本史上初の本格的な律令法として、後の律令制の礎となりました。特に、この法令の中で「天皇」という称号が正式に明記されたことが重要です。

当時の日本は、唐の影響を受けつつも独自の国家体制を整えつつありました。天武天皇は、日本の中央集権化を進めるため、国家の基本法を制定する必要性を認識していました。その結果、後に完成する大宝律令(701年)の前身として、飛鳥浄御原令が作られたのです。

しかし、この律令が完全に制定される前の686年に天武天皇は崩御されました。彼の遺志を継いだ皇后・鸕野讚良皇女(後の持統天皇)と皇太子・草壁皇子が、この律令の制定を引き継ぎました。しかし、草壁皇子も689年に急死してしまいます。その後、持統天皇が即位し、飛鳥浄御原令は諸官司へと頒布されました。

  1. 「日本」という国号の確立

日本の国号は、天武天皇の時代に生まれました。それまで日本は「倭(わ)」と呼ばれていましたが、7世紀後半に「日本」という名称が使われるようになりました。

702年、遣唐使が唐へ赴いた際に「日本」という国号を用いた記録が残っています。当初、唐側は「倭国」の名称を使い続けようとしましたが、日本側はこれを拒否し、「日本」と名乗ることを主張しました。これは、日本が独立国家としての意識を強く持ち始めたことを示すものです。

国内の正式文書で「日本」という国号が明記されたのは、『日本書紀』(720年)においてです。つまり、日本という国号が国際的に認識されるようになったのは702年、国内で公式に用いられたのは720年ということになります。

  1. 律令制の確立と日本の統治制度

飛鳥浄御原令は、日本の統治制度の骨格を形作る重要な法令でした。この法令には以下のような内容が含まれていました。
 (1) 天皇号の制定
 天武天皇の時代に「天皇」という称号が公式に使われるようになり、飛鳥浄御原令によって法典として明 文化されました。これにより、日本の君主を「天皇」と呼ぶ制度が確立しました。
 (2) 八色の姓(やくさのかばね)
天武天皇は、日本の貴族制度を整理し、氏族ごとの身分を示す「八色の姓」を制定しました。これは、貴族の階層を明確にし、天皇を中心とした中央集権体制を強化する目的がありました。
 (3) 地方統治の整備
飛鳥浄御原令では、6年ごとに戸籍を作成することが定められ、地方統治の基準として「50戸を1里」とする制度が導入されました。これにより、日本の行政制度が体系的に整えられていきました。
 (4) 班田収授法の導入
土地の所有と分配を明確にするため、班田収授法が規定されました。これは、一定の年齢に達した者に口分田(農地)を与え、死亡時には国家に返還するという制度です。こうした土地制度の整備も、後の律令制の基礎となりました。

日本の法制度と天皇の権威

日本の法制度の特徴として、長らく「刑法(律)」が成文化されなかったことが挙げられます。これは、厳格な法律による統制よりも、道徳や慣習を重視する日本独自の統治スタイルによるものです。

飛鳥浄御原令の制定によって「天皇号」が確立されましたが、実は「天皇」という称号が「日本」という国号よりも古いという点が興味深いところです。
国としての日本よりも、天皇という存在の方が歴史的に先に確立されており、その重要性が制度上でも強調されています。

このように、日本は法整備と道徳的統治を組み合わせながら、独自の国家体制を築いてきました。飛鳥浄御原令の制定は、その基盤を形成する上で極めて重要な出来事だったと言えるでしょう。

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