日露戦争の英雄・広瀬武夫中佐の命日に、その生涯と精神を振り返ります。仲間を想う心、美しき恋、そして命を懸けた覚悟。彼が軍神と称えられた理由に迫り、日本人の誇りとは何かを考えます。
◉ 万世橋駅と失われた記憶 ― 日本人の誇りがあった場所
かつて東京・万世橋駅の前には、日露戦争で戦死した広瀬武夫中佐と杉野孫七曹長の銅像が並んで建っていました。その姿は、国を守り、仲間を思って命を懸けた者への敬意と誇りを象徴するものでした。
しかし戦後、GHQの占領政策の一環として、全国の軍人の銅像は撤去され、多くの日本人がその存在さえ知らぬまま時が過ぎました。かつての商人と庶民の息吹があった連雀町の地名も消え、歴史の香りは「〇〇中央〇丁目」といった無機質な名称に塗り替えられています。
今は商業施設として生まれ変わった万世橋跡ですが、そこにかつてあった「誇りある記憶」を、私たちは思い出し、語り継ぐべきではないでしょうか。
◉ 軍神・広瀬武夫の生涯と心 ― 優しき武人の美徳
広瀬武夫中佐は、慶応4年に大分県の岡藩で生まれ、17歳で海軍兵学校に入学します。学業成績こそ振るわなかったものの、柔道では力を示し、骨膜炎の痛みに耐えながらフルマラソンを完走するなど、強靭な精神力を持ち合わせていました。
日清戦争では、捕獲した清国艦「鎮遠」の掃除を率先。便所の汚れを爪で落とすという逸話からも、彼のリーダーシップと人間性がにじみ出ます。
清水次郎長との交流や、部下の前で腹を拳で何度も叩き、「男らしさ」を示した逸話もあります。型破りでありながらも真っ直ぐな心を持つ武人、それが広瀬中佐でした。
◉ ロシア貴族アリアズナとの恋 ― 愛と節度の狭間で
駐在武官としてロシア・サンクトペテルブルクに赴任した広瀬中佐は、海軍高官の娘・アリアズナと出会います。清らかで誇り高い彼女は、中佐の語る日本の軍艦の名に込められた美意識に感動し、やがて心を寄せていきます。
しかし中佐は、どれほど好意を向けられても、軍人としての節度を崩すことはありませんでした。彼女に指一本触れず、別れのときには懐中時計とロケットを受け取り、再会を誓いながらも二人は永遠に別れることになります。
この純愛は戦後、関係者の証言によって明らかになり、世に知られることとなりました。
◉ 命を賭けた作戦 ― 旅順港閉塞と「軍神」と呼ばれた理由
1904年、日露戦争において、日本はロシア太平洋艦隊とバルチック艦隊の合流を阻止する必要に迫られていました。そのため旅順港の出入口を老朽船で塞ぐという、極めて危険な閉塞作戦が実施されます。
広瀬中佐は、福井丸の艦長としてこの任務を引き受けます。敵の砲火が降り注ぐ中、部下の杉野兵曹が見当たらないと知るや、自ら3度も船内に戻って彼を捜索。結果として敵弾により頭部を撃ち抜かれ、戦死します。享年36歳。
彼の死は、部下を思う心、任務への責任感、そして祖国への忠誠に満ちた、まさに「軍神」と呼ばれるにふさわしいものでした。
◉ 「軍神」とは何か ― 忘れてはならぬ誇り
広瀬中佐の死後、彼は文部省唱歌にも登場し、多くの人々の心に刻まれました。「軍神」とは、戦って死んだ英雄というだけではなく、他者を想い、自らの信念を貫いた人物にこそ与えられる称号です。
戦後、軍人の名誉は否定され、「軍神」も忌避される言葉となりましたが、それは世界の常識と逆行するものです。米国やスイスのように、自国の武人を誇る文化が、国家と国民の誇りを育てているのです。
今こそ私たちは、広瀬中佐の生き様を学び、日本人としての誇りと優しさ、勇気を取り戻すべきではないでしょうか。
