薬子の乱という政変の中、嵯峨天皇は即位し、空海は金剛峯寺を開創。地位も学歴もない空海が国を動かした理由とは?誠実を貫いた男と天皇の出会いが、日本文化の礎を築きます。
◉ 平安時代の夜明け──薬子の乱と天皇の交代
794年、桓武天皇によって平安京が築かれましたが、そこから始まる「平安の時代」は、必ずしも“平和な時代”から始まったわけではありません。平安遷都直後、桓武天皇の後継・平城天皇は体調不良を理由に退位し、弟・神野親王が第52代・嵯峨天皇として即位します。
この背後には、「藤原薬子の乱」と呼ばれる大きな政変がありました。薬子は藤原縄主の妻でありながら、娘を皇太子(平城天皇)に差し出し、自身がその寵愛を受けるという複雑な関係を築いていました。倫理を逸脱したこの関係に対し、宮中内外からの反発は激しく、薬子とその兄・藤原仲成は追放。しかしその後、退位した平城上皇とともに復権を目指す動きを見せ、これが「薬子の変」となって表面化します。
この乱を鎮圧したのが嵯峨天皇と坂上田村麻呂であり、この政変によってようやく朝廷の安定が図られることとなったのです。
◉ 空海登場──真の「誠実」が導いた仏教の革新
この激動の時代に現れたのが、後に「弘法大師」として知られる空海です。讃岐国の佐伯氏の出身で、家柄も学歴も特に目立つものはありませんでしたが、仏道への探究心は人一倍強く、納得できない答えには妥協せず、真実を求め続ける人物でした。
仏教界からは「理屈っぽくて扱いづらい存在」とされ、遣唐使として唐に渡る際には「20年は帰国不可」という条件をつけられます。しかし空海は、たった2年で帰国。その姿勢がかえって人々の信を得ていきます。
帰国後は太宰府で拘束されながらも、囚人たちを感化し、東大寺へと移された後も、多くの若者たちが彼のもとに集まります。空海の教えは、「我が身の幸せとは、皆の幸せである(乃至法界平等利益)」という利他の精神に貫かれたものでした。
◉ 嵯峨天皇と空海──文化の礎を築いた魂の出会い
空海が嵯峨天皇と出会ったのは、まさに薬子の変が終結し、日本が安定を取り戻そうとしていたときです。乱世の中で一貫して正道を説き続けた空海の存在は、嵯峨天皇に強い感銘を与えました。
嵯峨天皇は、空海に高野山の山上盆地を下賜し、仏教の理想を形にした寺院「金剛峯寺」の創建を命じます。819年5月3日(旧暦)──高野山の開創が始まった日です。金剛峯寺は、「胎蔵界」と「金剛界」という密教の世界観を具現化したものとなり、さらに神仏を一体として捉える「神仏習合」思想の中心となりました。
このように、空海と嵯峨天皇の出会いは、日本における宗教的価値観、倫理観、そして文化形成に多大な影響を与えました。
◉ 空海の言葉が今も生きている
空海の思想は、今もなお日本人の精神文化に深く根ざしています。
「乃至法界平等利益」──すべての命に平等な利益を。
「みんなの笑顔が、我が身の幸せ」──個人の幸福を超えた、共同体の幸福の理念。
これらの考えは、現代社会においても、利己主義を超えた“共生の精神”として、私たちに多くの示唆を与えてくれます。
