弘安4年5月21日(1281年6月9日)、壱岐・対馬に高麗軍が襲来し、弘安の役が始まりました。圧倒的兵力差の中、民を守って戦った武士たちの姿と、日本の「負けない心」が現代にもつながる意味を語ります。
◉ 第二次元寇・弘安の役──世界最大の艦隊が襲来した日
1281年6月9日、高麗の兵船団が壱岐・対馬を襲撃し、元寇の第二波「弘安の役」が始まりました。
これは史上最大級の海軍侵攻作戦であり、約15万6000人の兵士が4400艘の船で日本に向かいました。
一方、日本は鎌倉幕府の命で約6万人の兵力を九州に集結させましたが、実戦力はその一部にすぎず、圧倒的な数的劣勢でした。
モンゴル軍の将は「一瞬で日本を屈服させる」と豪語しました。
彼らの目的は軍事侵攻にとどまらず、日本の信仰、文化、生活を根こそぎ破壊し、民族の同化を図るものでした。
◉ 壱岐・対馬を守った無名の英雄たちの覚悟
この侵攻に最前線で立ち向かったのが、対馬の宗助国、壱岐の少弐景資といった地元の武士たちです。
彼らはわずか数百の兵力で、10万人を超える敵軍に立ち向かいました。
宗助国は前回の文永の役でも奮戦した人物であり、弘安の役でも「島の民を見殺しにできない」として最後まで戦い抜きました。
壱岐では、少弐景資が八幡神社に「民を見捨てることはできない」と誓い、討ち死にしています。
この「覚悟こそが防衛の本質である」という姿勢は、現代の我々にも深い問いを投げかけます。
◉ 神風は奇跡ではない──総力戦で守られた日本
一般に「弘安の役は神風で元軍が滅びた」と教えられています。
しかし実際には、博多湾には元寇防塁が築かれ、武士だけでなく僧侶・農民までもが武装して立ち上がる「総力戦」だったのです。
当時の日本人は「誰かがやる」ではなく、「自分が守る」という覚悟を持って戦いました。
その精神の連鎖があったからこそ、最後に「風」が吹いたのです。
神々は、命を懸けて努力した人々に力を貸す。これは、日本の信仰の根幹でもあります。
◉ 今こそ問われる「守る覚悟」と「負けない心」
宗助国や少弐景資の姿に見えるのは、勝敗ではなく「決して諦めない心」です。
現代日本に直接の侵略はありませんが、文化・経済・価値観における「見えない戦い」は続いています。
今の私たちに必要なのは、「負けを認めない」「心を折られない」精神です。
どんな困難でも、自分が守るという自覚。誰か任せにしない責任感。
それが日本という国をつくり、守り、未来へつなぐ原動力となるのです。
