6月19日は日本初の元号「大化」が制定された記念すべき日。加えて、応永の外寇では宗貞盛率いる700騎が朝鮮軍を撃退。さらに、戦後教育政策の一環として教育勅語が排除された日でもあり、三つの出来事から日本の精神と誇りを紐解きます。

🔹対馬の誇り──応永の外寇と宗貞盛の大勝利

1419年6月19日、李氏朝鮮は227隻の大船団に1万7千人超の兵を乗せ、対馬に上陸しました。
狙いは、まず人口の少ない島で兵糧を確保し、本州を襲撃するという作戦です。
ところが、迎え撃ったのは宗貞盛率いるわずか700騎の守備兵。

戦いは圧倒的な戦力差にもかかわらず、日本側の勝利に終わりました。
朝鮮軍の将校4名を的確に射抜き、混乱に陥った敵軍を追撃し、火を放って3000人を倒しました。
日本側の統率と練度の高さ、精神の強さが光るこの勝利は、以後、宗氏に日朝交易の管理権が与えられる結果につながりました。

この戦いは、日本人の誇りと気概を象徴する歴史のひとこまと言えるでしょう。

🔹教育勅語の排除──戦後の“精神の空白”

一方で、1948年6月19日。日本がGHQの占領下にあったこの日、衆議院と参議院で「教育勅語」の排除・失効に関する決議が可決されました。
日本人が長年大切にしてきた「親を敬い、国を愛する」という精神の柱が、占領政策の中で否定されたのです。

戦後の政治家たちは、この決議に誰ひとり反対の声を上げず、無効票もなく全会一致で賛成。
これに対して、対馬の守備軍が命がけで国を守ったことを思えば、まさに情けない姿勢です。

当時の状況を考慮すれば仕方のない面もあるとはいえ、精神の背骨を奪われたまま70年以上が過ぎている現状には、改めて問い直すべき意味があるのではないでしょうか。

🔹元号「大化」の誕生──日本の独立の証し

645年6月19日(旧暦では6月18日)、中大兄皇子と中臣鎌足による乙巳の変の直後、初の元号「大化」が制定されました。
元号を自ら定めることは、当時の東アジア世界において、主権国家であることを示す重要な行為でした。

唐や隋では、元号は皇帝の権威そのものであり、それを他国が使うことは「属国」の証。日本はそれを拒み、あえて独自の元号を制定することで、「わが国は対等であり、属国ではない」という意思を世界に示したのです。

ちなみに、「天皇」の称号は、国号「日本」よりも古く、608年の遣隋使の書簡に「東天皇敬白西皇帝」と記されており、当時から堂々たる外交を展開していたことがわかります。
日本の国号「日本」は701年の大宝律令で正式に用いられ始めました。

つまり、我が国は古くから「自らの時間」と「自らの精神」を持った文明国であったのです。

🎌結びに

歴史に刻まれたこの三つの出来事――
たった700人で大軍を打ち破った誇り。
占領政策に翻弄され、失われた精神の拠り所。
そして、日本の独立を堂々と宣言した元号「大化」の制定。

いま私たちが生きるこの時代にも、これらの出来事は強いメッセージを投げかけてくれています。
国を守るとは何か。
誇りとは何か。
そして、主権とは何か。

元号の日である6月19日、改めて「日本とは何か」を心に刻み、未来への一歩を歩み出しましょう😊🌸

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