エゼキエル書をもとに、現代のイスラエル戦争が聖書の預言かを検証。福音派の主張、隠れた動機、預言の本質について東郷潤氏と語り合いました。

🔹 聖書の記述と預言の真実

エゼキエル書38・39章を実際に読み上げながら、イスラエル戦争が終末預言なのかを考察しました。
聖書が書かれた時代背景、バビロン捕囚期のユダヤ人たちの苦悩と希望を前提に、予言とは
「当たらないためにある」
という考え方を共有。
東郷先生は、預言が成就すること自体が「失敗」であり、そもそも当たらないために人々が善に立ち返るための警告であるという、興味深い視点を提示しました。

🔹 米国福音派の主張と隠れた動機

現代、米国福音派の一部が、現在進行するイスラエル戦争を「聖書の終末預言」だと強引に結びつけています。
しかし、聖書の時代背景や記述を冷静に読み解くと、この主張は無理があることが見えてきます。
聖書学者の研究や、他宗派の反論を紹介しつつ、なぜ福音派がこうした主張を広めるのか、その裏に潜む政治的思惑や資金集めの構造、世界中の政治への影響力など、隠された動機について考察しました。

🔹 預言の本質と歴史観

預言は「当たることが目的」ではなく、むしろ人々に「今をどう生きるか」を考えさせるための警告
そこに人類史の深い知恵が隠されていると東郷先生は指摘しました。
また、日本とヘブライ民族の言語的・文化的共通点にも話は及び、聖書を学ぶことは西洋文化を理解する一助になるという視点も提示。
物語の一部をつまみ食いし、自らの主張に合わせるのではなく、全体を読み解く大切さが語られました。

《参考》
✅ エゼキエルの書とは何か

エゼキエル書は、旧約聖書に含まれる預言書の一つです。
紀元前6世紀、バビロン捕囚中の預言者エゼキエルによって記されたとされました。
神の幻を見たエゼキエルが、イスラエルの民への裁き、救済、そして将来の希望を語る内容です。
終末的な戦いの預言や、神殿再建の幻など象徴的表現が多く、キリスト教やユダヤ教において重要視されています。

✅ バビロン捕囚とは何か

紀元前6世紀に新バビロニア王国がユダ王国を滅ぼし、ユダヤ人の指導層や民をバビロンへ強制移住させた出来事。紀元前586年頃、エルサレム神殿も破壊されました。
この捕囚生活は約50年続き、後にペルシャ王キュロス2世の解放令で帰還が許され、ユダヤ人社会再建の礎となりました。

✅ キリスト教福音派とは何か

キリスト教福音派は、聖書を絶対の権威とし、個人の信仰体験を重視するプロテスタントの一派です。
米国では19世紀以降急速に勢力を拡大し、特に20世紀後半から政治的影響力を強めました。
福音派は、中絶反対、同性婚反対などの保守的価値観を掲げ、
共和党の重要な支持基盤ともなっています。
また、終末預言に基づくイスラエル支持を鮮明にし、
中東政策や外交にも影響を及ぼしてきました。
現在も米国人口の約4分の1を占め、宗教右派の大きな柱となっています。

✅ 予言と預言の違いとは

「予言」は未来の出来事を予測して語ることを指し、日常語で使われます。
「預言」は、神や超越的存在の言葉を「預かり伝える」意味で、宗教的文脈で用いられます。
特に聖書では、神の意志を人々に告げる行為を「預言」とし、単なる未来予測とは区別しています。

古典の読み方について

古典は、その読み手の立場や目的によって、全く異なる意味を持ちます。
宗教学(神学)的に読めば、信仰や儀礼、教義の体系を理解する資料となり、神や霊性の真理を探究する対象となります。
哲学書として読めば、そこに描かれた神話や物語を通じて、人間存在や生きることの意味、社会秩序の根源的問いを考える手がかりとなります。
史書として読めば、記された内容を当時の社会構造や権力関係を知る史料と捉え、客観的な史実の解釈を重視することになります。

ねずさんは、古典を単なる過去の記録や権威として読むのではなく、
現代を生きる私たちが自らの生き方や社会の在り方を考えるための「道しるべ」として読む姿勢を大切にしています。
古典に込められた先人たちの知恵や精神を、歴史や文化の流れの中で正しく理解し、
同時に自分自身の言葉で捉え直すことが重要だと考えています。
そこには、古典を現代に活かす知恵と、先人への敬意、そして未来への責任感が込められています。
ここが一番大事なところだと思っています。

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