7月22日「大暑」や「下駄の日」にちなむ話題から、デリンジャー事件と義賊文化へ。アメリカと日本の“悪人称賛”の違いを比較し、現代に問うべき「正義」の本質を探ります。
🌞 1. 7月22日は「大暑」──季節と文化の話題から
7月22日は二十四節気のひとつ「大暑」。
一年で最も暑い時期に入り、空には入道雲がもくもくと現れる頃です。
この日の由来や気候的特徴にふれながら、日本の季節感や自然観への感謝を語りつつ、関連する記念日「下駄の日」にも触れました。
下駄のサイズ「七寸七分(約23.3cm)」と足跡が「二二(二本足)」に見えることから、7月22日が「下駄の日」として制定されたというユニークな背景も紹介されました。
また、戦後日本のエピソードとして、上野動物園にサイやカバ、キリンが海を越えて到着した1952年の出来事を紹介。終戦後まもない貧しい時代に、国際的な配慮のもとで動物たちを買い戻した日本の誠意と外交的な心意気に感謝です。
🕯️ 2. デリンジャー事件と「アメリカのロビン・フッド症候群」
1934年7月22日、FBIにより射殺された銀行強盗ジョン・デリンジャー。
当時のメディアは彼を“英雄”のように称賛しました。
この現象は「ロビン・フッド症候群」と呼ばれるものです。
アメリカにおける“アウトローの英雄化”の象徴です。
背景にあるのは、当時の大恐慌(1929〜1941年頃)により庶民が銀行に対して深い怒りと不満を抱いていたという事情です。
デリンジャーは庶民に危害を加えず、銀行だけを襲ったために「庶民の代弁者」として扱われたのです。
逃走時に奪った警察車両フォードV8を称賛する手紙をフォード社に送ったエピソードなども報道され、彼の物語は、いまなお映画化されるほどの人気を博しています。
しかし、それは単なる“善悪の逆転”であり、マスコミが生み出した偶像です。
🏯 3. 日本の義賊文化との比較──称賛の質が違う
同じく「義賊」とされる人物は日本にも存在します。鼠小僧次郎吉、日本駄右衛門、石川五右衛門──彼らもまた、庶民に好まれた盗賊です。
けれども日本での評価のポイントは、「盗んだ相手が権力者や豪商であった」ことではありません。
盗賊でありながらも非道はせず、筋目と情義を守ったという、行動の中にある「筋の通った義」が評価されたのです。
つまり、日本においては「法を破っても道を外さない」ことが賞賛されたのです。
一方、デリンジャーの行動には「筋」も「仁」もありません。
ただ銀行を襲って、私腹を肥やしたアウトローに過ぎません。
にもかかわらず彼が称賛されたのは(ここが大事なのですが)、
「銀行=悪、デリンジャー=正義」という善悪二元論的な短絡的構図に、社会全体が絡め取られていたからです。
🧭 4. 武士道の視点で見つめ直す「正義とは何か」
武士は、目の前に不条理があれば、斬捨御免の権限を付与されていました。
けれど、そこにおいて大切なことは、眼の前で不条理を働く者を斬ることそのものではありません。
「斬らずに済む道」を探すことが第一義とされていたのです。
刀を抜けば、自らも命を絶つことになります。
その覚悟をもって行うために必要なことは、そこに「筋を通す」という一義が立っているかにありました。
つまり、
「悪は悪でしかない」のです。
そして同時に、
「悪を叩けば正義ではない」のです。
筋の通った行動が大事なのであって、そこに善悪の基準があるわけではないのです。
この倫理観こそが、武士道の本質であり、
現代においても必要な、生きるための「軸」なのです。
🌱 5. 我々が選ぶべき「物語」とは?
ジョン・デリンジャーは、映画にされ、語られ、英雄化された人物です。
けれど、ジョン・デリンジャーを英雄にすることは、間違ったことです。
なぜなら、行動に筋が通っていない。
ジョン・デリンジャーも、鼠小僧も、歴史にある物語です。
では、いま「私たちが次世代に残すべき物語」とは、どんな物語でしょうか?
• 他者を罵倒し合う物語?
• ただ敵を叩く快感の物語?
• それとも、義を通し、人を育み、未来を紡ぐ物語?
我々が、我々自身の物語をどう作っていくのか。
それは、他人が決めることではありません。
🎌 結びに
正義よりも大事なこと。
それは、物事に「筋を通す」ということかもしれません。
そして「筋を通す」ということは、自分がどう生きるかを決めることでもあります。
メディアは、簡単に善悪論に民衆を巻き込もうとします。
けれど、私たちは決して「ロビンフッド症候群」に巻き込まれてはいけないと思います。
そのためには、どんなに世間が騒ごうと、笑顔で「筋」を通していくこと。
それが、良い未来を築くということではないかと思います。
ありがとう日本、行ってらっしゃい!✨🌸
