1884年、自由の女神像の建設が始まった日。その背景にはアメリカ独立戦争やフランス革命、さらに太平洋を越えた鯨漁と日本との関わりまで、世界史を貫く一本の線が浮かび上がります。

「自由の女神」はなぜ建てられたのか──見落とされがちな“感謝”の物語

1884年、ニューヨークで自由の女神像の建設が始まりました。言うまでもなく、これはアメリカを象徴する存在です。しかしこの像は、アメリカ自身が建てたものではなく、フランスから贈られたものでした。

ここで思い出されるのが、アメリカ独立戦争(1775〜1783)におけるフランスの多大な援助です。ルイ16世のもと、フランスは兵士も武器も資金も提供し、アメリカの独立を全面的に支援しました。

ところがその代償として、フランスの財政は悪化。国王の威信は地に落ち、ついには1789年にフランス革命が勃発します。つまり、自由の女神はアメリカ独立の“象徴”であると同時に、その裏で倒されたフランス王政への“無言の墓標”でもあるのです。

フランスとイギリスの宿怨──「王と海賊」の文明対立

なぜフランスは、あれほどまでにアメリカを支援したのか。そこには、イギリスとの深い確執がありました。

イギリスの王家は、もともとフランス貴族の分家。フランス王から見れば、自らの「部下」が勝手に海を渡り、「イギリス王室」を名乗っているようなものでした。さらにイギリスは、国家ぐるみで海賊行為を行い、スペインやポルトガルの船を襲って富を奪うという、まさに“略奪の国”。

一方で、フランスは伝統と文化を重んじ、王政によって国の威厳を守っていた国です。こうした文明観の違いは、アメリカ独立戦争をめぐる両国の関係にも色濃く現れています。

フランスは、イギリスの勢力を削ぐためにアメリカを支援しました。しかしその結果、自らの王政が倒れてしまうという“歴史の皮肉”が生まれたのです。

鯨漁とペリー来航──「奪い合いの連鎖」はやがて日本へ

戦争が終わると、アメリカは困窮します。フランスからの財政支援が断たれ、経済は急激に冷え込みました。そこで始まったのが、鯨漁です。鯨の油は当時、ろうそくの材料として重宝されました。

大西洋で鯨を獲り尽くしたアメリカは、太平洋へと進出し、途中でハワイを“確保”し、さらに日本を目指します。ここで登場するのが、あのペリーです。彼は、日本に港の開港を迫ることで、太平洋航路を押さえようとしたのです。

つまり、アメリカ独立から始まった動きは、やがて太平洋を越えて日本にまで到達したわけです。

奪い合いの時代から、「結び合い」の文明へ

アメリカの独立は、「自由」の象徴であると同時に、その背後にはフランス王政の崩壊や、クジラを巡る自然破壊、さらにはアジアへの侵出といった、さまざまな「代償」が横たわっています。

このような“奪い合いの文明”が、近代以降の世界を形作ってきました。そしてその終焉を迎える兆しが、いま見え始めています。

私は、日本という国こそが、この略奪の文明に終止符を打ち、「むすび」の精神に基づく、新しい文明の火種となるべき存在だと信じています。

それは、世界を責めることでも、過去を恨むことでもなく、「歴史を通じて自分を見つめ直す」という姿勢から始まるのではないでしょうか。

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