1893年8月12日、小学校儀式唱歌8曲が制定され、君が代は国民の常識となりました。戦後封印された歌とその文化的役割、現代への教訓を解説します。
- 「君が代の日」と学校儀式唱歌の制定
1893(明治26)年8月12日、文部省は「小学校儀式唱歌用歌詞並楽譜」を布告し、全国の小学校で祝祭日や皇室祭祀の日に歌う8曲を定めました。その筆頭に置かれたのが「君が代」です。
当時、紀元節・神嘗祭・新嘗祭・天長節などの祭日には、授業はなくても全校登校日とされ、朝礼で校長からその日の意義を学び、紅白饅頭を持ち帰るのが恒例でした。饅頭は地域の和菓子屋に発注され、製造には近所の母親たちが手伝いとして参加するなど、地域経済とつながる仕組みもありました。
祭日は単なる休みではなく、国民が皇室行事を寿ぎ、子どもたちが歴史や伝統を学ぶ教育の場でもあったのです。
- 8つの歌と込められた意味
制定された学校儀式唱歌は以下の8曲です。
(1) 君が代
国民の常識として定着し、自然発生的に国歌となった歌。千代に八千代に続く平和と繁栄を願う内容です。
(2) 勅語奉答
あやにかしこき すめらぎの あやにたふとき すめらぎの
あやにたふとく かしこくも 下したまへり 大みこと
(3) 一月一日
年の始めの 例(ためし)とて
終りなき世の めでたさを
松竹(まつたけ)たてて 門(かど)ごとに
祝(いは)ふ今日(きょう)こそ たのしけれ
(4) 元始祭(がんしさい)
天津(あまつ)日嗣(ひつぎ)の 際限(きはみ)なく
天津璽(しるし)の 動きなく
年のはじめに 皇神(すめがみ)を
祭りますこそ かしこけれ
四方(よも)の民くさ うち靡(なび)き
長閑けき空を うち仰ぎ
豊栄(とよさか)のぼる 日の御旗(みはた)
たてて祝(い)ははぬ 家ぞなき
(5) 紀元節
雲にそびゆる 高千穂(たかちほ)の
高根(たかね)おろしに 草も木も
なびき伏しけん 大御世(おおみよ)を
仰ぐ今日こそ楽しけれ
(6) 神嘗祭
五十鈴(いすず)の宮の 大前(おほまへ)に
今年の秋の 懸税(かけぢから)(全国の農家が 奉献 した稲穂)
御酒(みき)御帛(みてぐら)を たてまつり
祝ふあしたの 朝日かげ
靡く御旗(みはた)も かがやきて
賑(にぎは)ふ御代こそ めでたけれ
「御帛」は、神道において、神様にお供えする品物全般を指す言葉
(7) 新嘗祭
民やすかれと 二月(きさらぎ)の
祈年祭(としごひまつり) 験(しるし)あり
千町(ちまち)の小田(おた)に うち靡(なび)く
垂穂(たりほ)の稲の 美(うまし)稲
御饌(みけ)に作りて たてまつる
新嘗祭(にひなめまつり) 尊しや
(8) 天長節
今日の吉(よ)き日は 大君(おおきみ)の
生まれたまいし 吉き日なり
今日の吉き日は 御光(みひかり)の
さし出(で)たまいし 吉き日なり
これらの歌は、子どもから大人まで世代を超えて共有され、音楽を通じた「心の共鳴」を生み出していました。家庭でも祖父母と孫が一緒に歌える文化は、国民の一体感を醸成する重要な役割を果たしていたのです。
- 戦後の封印と現代への課題
戦後、占領政策や国内外の反対運動によって、君が代や日の丸は「軍国主義の象徴」として批判され、学校現場から遠ざけられました。1999年に国旗国歌法で正式に法制化されましたが、依然として一部の教育現場では指導を避ける例があります。音楽の教科書では掲載位置が後ろに回され、子どもが学校で習わないケースも珍しくありません。
この背景には、戦後も続く日本解体工作や、歴史に対する誤解・洗脳が存在します。政治は本来「察して先手を打つ」べきですが、現代は「事態が起きてから対応する」後追い型が主流です。国民の意識改革と政治の変革は車の両輪であり、どちらか一方だけでは国柄を守れません。
- 文化を取り戻すために
世代間で歌や文化が共有されなくなった今、国民の心をつなぐ「共鳴の場」が失われています。春夏秋冬の季節感や花をめでる心、童謡や子守唄といった文化も同様に薄れつつあります。
君が代をはじめとする学校儀式唱歌は、単なる歌ではなく、日本人としての誇りや連帯感を育む「心の礎」でした。こうした文化を知り、歌い継ぐことは、未来に誇れる国を築くための第一歩です。
