松本楼の10円カレーの由来を入口に、タミル起源・福沢諭吉や三宅秀の記録、軍と帝国ホテルの炊き出し、戦中戦後の変遷をたどり、カレーが国民食となる過程と日本の連続する文化を描きます。

1.「10円カレー」が伝える復興と感謝――日比谷・松本楼の記憶

9月25日は「10円カレーの日」です。
由来は1971(昭和46)年の沖縄デーのデモで日比谷公園の松本楼が焼失した出来事に始まります。
全国から寄せられた励ましと支援に応える形で、再建を果たした1973年9月25日に“感謝の印”としてカレーを10円で提供する慈善行事が始まりました。
先着1,500名にふるまわれ、売上や募金は義援金として寄付されます。

松本楼は近代日本の政治社会とも深い縁を持ちます。
明治・大正期には護憲運動の演説がバルコニーから行われ、1923年の関東大震災や戦中の接収を経ても再起してきました。
「焼けてもまた立ち上がる」
「いただいた支えを次へ返す」という精神が、
10円カレーという形で今も受け継がれています。

2.カレーはどこから来たのか――タミル、言葉の響き、そして横浜

カレーの源流はインド南部のタミル地方のソース「kari」にあります。
稲作の古い伝承地でもあるこの地域の古代タミル語には、「ine(稲)」「ane(姉)」「ani(兄)」「hanasu(話す)」など、日本語と響きの似た語が多く指摘されます。
語源学の確定は容易ではありませんが、アジアの言語文化が太古から交流してきた手ごたえを感じさせます。

この「kari」が英語で「curry」と表記され、日本へは英語経由で入ってきました。
福沢諭吉は1860年刊の英和辞典『増訂華英通語』で「curry」をカタカナ「コルリ」と記しました。
さらに1863年、遣欧使節団の一員で後に東京大学の初代医学博士となる三宅秀が、航海中にインド人コックのカレーを口にし、日記に食法と印象を克明に残します。

やがて幕府は横浜の静かな海岸に港町を急造し、外国人居留地が形成されます。
そこで暮らす英国人を通じてカレーライスが紹介され、日本の食卓に登場しました。
明治初年には、元会津藩家老家の山川健次郎が渡米の船中でカレーと出会い、強烈な見た目の印象も含めて記録しています。

レシピの文献化は明治5年の『西洋料理通』『西洋料理指南』が早く、当初は長ネギを用い、とろみに小麦粉を使うなど、日本流の試行錯誤が見られます。
肉の扱いも独特で、当時は牛豚が日常的でなかったため、食用ガエルを使う例が記されています。
玉ねぎは江戸後期に観賞用として伝来していたものの食用普及は遅れ、北海道の栽培・研究を経て広まりました。

クラーク博士の時代、学生の食規定に「ただし、らいすかれいはこの限りにあらず」とある逸話は、米とカレーの相性が若者の胃袋をつかんだ証しといえます。
今日、玉ねぎとじゃがいもがカレーの“二枚看板”になった背景には、北海道の農業発展がありました。

3.国民食への道――軍隊、炊き出し、戦中の名前、戦後の家庭

カレーが「国民食」へと広がる推進力は、軍隊と大規模炊き出しの経験にあります。
明治6年、陸軍幼年学校が昼食にカレーライスを採用し、栄養とエネルギーを重視した近代的な給食文化の一角を担いました。
当時の洋食店でのカレーは高価で、輸入食材に頼る贅沢品でしたが、軍は育成の基盤として惜しまず取り入れていきます。

海軍は明治41年にレシピを定め、艦内食として正式採用。
曜日感覚を保つための「金曜カレー」などの慣行も後に伝説化し、レシピは地域の海軍ゆかりの街に受け継がれ、観光資源にもなりました。

決定的な“拡散点”は1936年の二・二六事件の折です。
厳寒と降雪の中で警備にあたる部隊へ、帝国ホテルのシェフが大量の温かいカレーを炊き出し、士気と体温を支えました。
各地から集まった兵が帰郷後に味と作り方を広め、都市の洋食から地方の食卓へと急速に伝播していきます。

戦中は英語忌避の流れから呼称が「辛味入汁掛飯」と変わり、スパイス不足にはヨモギ粉や生薬を用いた代用カレーが工夫されました。
母親たちが少ない物資で子の笑顔を引き出した台所の知恵は、戦後の家庭料理に連なります。

1950年代半ば以降、メーカーの巡回教室とテレビCMが普及を後押しし、学校給食にも採用。やがて「家の味」と「外食の味」の二層で改良が進み、レトルト・ルウ・フレークなどの形態も整備され、家庭の定番となりました。

一皿のカレーの背後には、港町の成立、言語の往還、学者や武士の航海記、軍の栄養管理、戦中の工夫、戦後の広告や給食まで、重層的な歴史が折り重なっています。
点と点が線になり、線が面になって、今日の「国民食」ができ上がりました。

そしてこの物語は、単なる食の遍歴に留まりません。
松本楼の10円カレーが象徴するように、
「受けた支えを社会へ返す」
その姿勢が、食の記念日を通じて現在に受け渡されています。

神話以来の長い時間を生きてきた国は、日々の食卓という最小単位でも、過去からの贈り物を受け取り、次世代へ手渡していきます。
日本を大切にする心は、食を大切にする所作へ、さらに地域を支える行いへとつながっていくはずです。
一皿のカレーは、復興と感謝、工夫と連帯、歴史と日常の交差点です。
9月25日の記憶を味わいながら、今日も笑顔で元気に過ごしていきたいものです。

【所感】
カレーライスの広がりをたどるとき、そこに見えてくるのは「人に寄り添う体験」の力です。
戦時中の「辛味入汁掛飯」や代用スパイスは、母たちが家族を思い、知恵を絞って生み出した工夫でした。その温かさが子どもの心に響き、戦後も家庭の味として受け継がれていったのです。

松本楼の10円カレーもまた、焼け跡から立ち上がる復興と、支えられたことへの感謝の心を一皿に込め、多くの人々の共感を呼びました。

文化は、ただ制度や流通で広がるのではなく、人と人とが「響き合う」瞬間に拡散します。
食卓を囲む喜びや笑顔の連鎖こそが、社会を温め、未来へと続く文化の芯を育ててきたのだと感じます。

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