1879年10月21日の白熱電球公開にちなむ「あかりの日」を軸に、八幡の竹と電気の普及史、関東大震災の教訓、さらに同日の学徒出陣・自由インド仮政府・特攻初出撃をたどり、技術と歴史の向き合い方を考えました。

  1. 10月21日「あかりの日」──八幡の竹が灯した文明の光

10月21日は「あかりの日」。1879(明治12)年のこの日、トーマス・エジソンが白熱電球を一般公開しました。
長時間点灯するフィラメント探しに、金属から綿糸、あごひげまで数え切れない素材が試され、行き着いたのが「竹」。
助手たちは世界中の竹を集め、その中で京都・石清水八幡宮(男山)ゆかりの真竹が特に優れていると分かり、1000時間超の点灯を実現したと伝わります。
八幡の竹は、かつて刀の「目釘竹」の名品として将軍家に献上された逸品。
強靭で質が高い竹の特性が、近代の“灯り”を支えたのです。

石清水八幡宮では今もエジソンの遺徳を偲ぶ祭典が行われ、絵馬にもその姿が描かれています。
日本の古い素材と米国の発明が結びつき、新しい生活文化が始まった――この物語は、伝統と最先端が響き合うときに大きな力が生まれることを教えてくれます。
電球から蛍光灯、そしてLEDへ。形は変わっても、「夜を照らす光」がもたらした恩恵は計り知れません。

  1. 電気は危険か福音か──明治の葛藤と関東大震災の教訓

電気の導入は、最初から歓迎一色ではありませんでした。
電信柱が立ち、電線が張られはじめると、面白半分に柱へ登って感電事故が多発。
「電気は恐ろしい」という噂が広がります。
さらに明治23(1890)年、仮議事堂(東京・内幸町。現・経産省敷地付近)が漏電により焼失。
世の「電気不要論」は勢いを増し、電柱反対運動まで起きました。

一方で、人々には夜道を少しでも明るくしたい切実な願いがあり、各地で街灯の設置が進んでいきます。
事故の恐れを前に進めるべきか、生活の利便を取るべきか。
社会は長く揺れ動きました。

転機は大正12(1923)年の関東大震災。
倒壊した電柱・断線で都市は闇に沈み、避難生活は不安に包まれます。
そこで多くの人が、電気のありがたさを身に沁みて知ることになりました。
「電気が危険かどうか」ではなく、「どう安全に付き合うか」へ。
以後、電気は日本の隅々まで行き渡り、冷蔵庫や炊飯、通信、映像――暮らしの基盤へと定着していきます。

ここに大切な視点があります。
新技術は“善か悪か”の二元論では測れないということ。
ルールと節度、点検と教育を整え、「正しいお付き合い」を重ねてこそ、技術は福音になります。
電気も、鉄道も、自動車も、そしてAIも同じです。
危うさを理由に遠ざけるのではなく、危うさを理解して手なずける。
そこに文明の成熟があるはずです。

  1. 同じ10月21日が語る、もう一つの光と影

10月21日には、近代日本の心を映す出来事が重なっています。

1943(昭和18)年・学徒出陣壮行会(明治神宮外苑)
国の大事に殉ずる覚悟で学徒が送られました。
軍歌『あゝ紅の血は燃ゆる』は「君は鍬とれ我は鎚」という歌詞で、兵だけでなく「土を耕し生産を支えることも“戦い”」であると歌います。
土地と暮らしを守る意志が、当時の若者の胸に灯っていました。

1943(昭和18)年・自由インド仮政府の発足
スバス・チャンドラ・ボースの下、インド独立のための暫定政府が樹立。
植民地の枠を超え、自立の灯がともった日でもあります。
日本との関わりは、アジアの解放という時代の潮流を考える上で欠かせません。

1944(昭和19)年・神風特別攻撃隊の初出撃
重い選択でした。そこにあったのは国家存亡の岐路、帰還を期しがたい任務に向かう若者の胸中。
命の光の尊さを、後に生きる者として忘れてはならない日です。

これらの出来事は、「灯り」をめぐる話と無関係ではありません。
文明を照らす物理の光、心を照らす倫理の光、歴史の闇を照らし出す記憶の光。
どの光も、正しく扱わなければ人を傷つけ、正しく生かせば未来を導く。
10月21日は、そのことを同時に思い出させる日だと感じます。

結び

エジソンの電球を支えた八幡の竹、電気と人間が学び合った明治から大正の歩み、そして昭和の選択。
どの場面にも、技術と心の「お付き合い」が問われてきました。
便利さだけでも、恐れだけでもない。
節度と祈りを忘れずに手を携え、光を使いこなす。
今日という日に、もう一度スイッチを入れ直したいと思います。

さあ、笑顔でいきましょう。
あかりを掲げて、次の一日へ。

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