朝晩だいぶ涼しくなってきました。
「暑さ寒さも彼岸まで」といいますが、いよいよこれから本格的な秋です・・・と言いたいところですが、実はちょっと違います。
そこで今日は、よもやま話を少し。。。

昭和の中頃くらいから、日本人に季節感がやや乏しくなってきたような気がしています。
これには、日本列島全体の年間平均気温が上がってきているということもあるのですが、もうひとつ、暦(こよみ)が関係しているようにも思えます。

昔は陰暦(太陰太陽暦)でした。
これは月の運行によって暦を刻みます。

いまは「太陽暦」です。
これは地球が太陽の周りを回る周期(太陽年)によって暦を刻みます。

変ったのは明治のはじめです。
理由は当時の明治政府の財政上の理由です。
陰暦は、何年かに一度「うるう年」があります。
太陽暦の「うるう年」は、2月が1日増えるだけですが、陰暦の「うるう年」は、1年が13カ月になります。
まるまる一ヶ月増えるのです。

戊辰戦争のあと、できたばかりの明治政府には、本当にお金がなかったのです。
普通は、戦勝側は、敗者側の財産を没収しますから、それなりに財務がうるおうものです。
ところが、江戸時代のはじめ、徳川家康は世界最大の大金持ちとされていたのですけれど、幕末の頃の幕府には、全然、お金がありませんでした。

理由は、金(=Gold)の海外流出でした。
実は、人類誕生以来、世界中で採掘された金(=Gold)は、オリンピック・プールに換算して約3杯分だと云われているのですが、このうちの3分の1にあたる、まるまる一杯分が、実は日本産です。

マルコポーロは日本を「黄金の国ジパング」と書きましたが、これは本当にそうだったのです。
なにしろ世界の3分の1の黄金が日本国内にあったのです。
日本はまさに「黄金の国」でした。

鎌倉時代の元寇も、実はモンゴルにまたたくまに征服された高麗王が、元のフビライに
「私達の国は貧しくて何も取るものなどありません。
 しかし海の向うにある日本には、
 莫大な量の黄金があります。
 それはきっとフビライ皇帝の
 お役に立つものとなりましょう」
と、余計なことを申し出たことが原因です。

もっとも高麗は、王様のそんな讒言のために、結果として高麗兵が元寇のために大量に駆りだされた挙句、大敗して大損害を被っているのですから、これは「罰当たり」といえるかもしれません。

江戸時代には小判が使われていたことはみなさまよくご存知のことですが、小判は、一般の庶民の間にもごく普通に流通していました。
このように申し上げると、「いやそんなことはない。庶民は超貧乏で小判の顔など一生かけても拝めなかったのだ」と思う方もおいでかもしれませんが、実はそのような貧農史観自体が嘘なのです。

たとえば、お伊勢参り、金比羅参り、あるいは温泉での湯治など、いまも昔も日本人は旅行が大好きですけれど、江戸の庶民も旅行が大好き。
なにしろ日本全国の人口が2500万人だった時代に、お伊勢参りをする人は年間500万人もいたのです。

このような旅行をするとき、当時は旅行者が襟に小判を1枚縫い付けるのが作法でした。
何日もかけて知らない土地を旅するのです。
途中で万一行き倒れにでもなったときには、その小判で、あとあとのことをヨロシク頼む、というためのそれが作法だったのです。
小判1枚が、いまのおカネでだいたい6万円です。
ですから、簡単な医療費、埋葬費、遺族への遺品送付費と、簿謝金をだいたい賄うことができたのです。

ちなみに時代劇で、越後屋がお代官に渡す小判の包のひとつ(これを「かまぼこ」とか「餅」と言いました)は、ひとつつみが50両です。
いまならかまぼこ1つで300万円。
菓子折りの箱入りなら、1段積で6000万円、二段積みで1億2000万円くらいの賄賂です。すごい賄賂ですね。

また、虫歯は、今も昔も人類を悩ます痛いものですが、江戸の昔にも、何も漢方医ばかりではなくて、歯医者さんもちゃんとあって(これを口中医と呼びました)、ひどい虫歯は本当に「ヤットコ」でつかんで、グリっとばかり引っこ抜いたりしていたのですが、それほど悪くなっていない場合は、穴のあいたところに、金(=Gold)をかぶせていました。
いまでは、金歯はすっかりなりをひそめてしまいましたが、セメント歯や銀歯よりも、金歯の方が料理はおいしく食べれるといって好まれたのです。

そもそも一般の庶民の財布にまで、普通に金貨(小判)が入っていたような国は、世界広しといえども昔の日本くらいなものです。
それだけ日本は、たくさんの金を産出したのです。

それが幕末、日本はいっぺんに金(=Gold)を失ってしまいました。
その理由となったのが日米和親条約の細則で、そのあたりのことは過去記事「明治維新と南北戦争の不都合な関係」に詳しく書いていますので、そちらをご参照ください。

結局、金の大量流出を招いた幕府は、小判を改鋳して、万延小判を出しました。
これは金の含有量が、従来の小判の4分の1しかないというもので、金銀の為替相場によって日本国内から金が海外に流出することを防ぐための幕府の苦肉の策でした。

ところが、これを庶民の側から見ると、1万円札の値打ちが、いきなり4分の1になったわけです。
代金を1万円もらったら、新一万円札は2500円分の値打ちしかないようなものです。
これでは世間が大混乱するのもあたりまえで、おかげで幕末に、もうわけがわからなくなって、「ええじゃないか踊り」が大流行したり、都に上洛した将軍に「よっ!ショーグン!」と民間から声がかけられるといった事態が起きています。
つまりお上の権威が、黄金の流出によって失墜してしまったのです。

幕末動乱は、尊王攘夷と開国佐幕派の思想的対立によるものだという説が一般的ですが、実は小判の価値がいきなり4分の1日なるという経済的混乱が、幕府が倒れる引き金になっています。
このことは鎌倉幕府も同じで、鎌倉幕府は相続制度の欠陥(現代の相続法と同じ方式)によって御家人たちが財を失い、幕府が徳政令を発布(現代で言ったら幕府の破産)したことが倒幕のきっかけになりました。
室町幕府もまた同じで、明国との勘合貿易で大儲けしていた幕府だったのですが、そんなに儲かるならと、全国の大名たちが勝手に交易をするようになり、結果、幕府の財政が悪化しています。

ちなみにこうした幕府のことを、歴史伝統文化に基づく「ネイション(国家)」と分けて、「ステイト(政体)」と言います。
日本はもともと天皇のもとにある(つまり天の下)ネイションですが、政治は幕府というステイトで行ったわけです。
そしてその政体が崩壊した理由の1が、上に述べた財政の失敗。
二番目には、財政が苦しくなっているところに大地震が起きて、被災地への援助がままならなくなったという、二つの理由が重なったときに、倒幕に至っています。

その意味で、現代日本は政府(幕府)が増税に次ぐ増税で財政破綻しており、さらに日本にとって黄金に変わる富、つまり日本の技術が海外に流出し、日本の富まで薬品購入のために海外へと流出。
これにもうひとつ地震でも来たら、日本政府、つまり戦後日本のステイト(政体)が崩壊します。
ただし、条件があります。

それが受け皿です。
要は、現代の日本政府(昔で言ったら幕府)に変わる受け皿に相当するものが、現状ではまだ育っていないのです。
つまり、鎌倉時代なら後醍醐天皇や楠木正成。
室町時代なら戦国大名たち。
江戸時代なら、薩長土肥。
こういった、新たな政治体制になるものが育った時、戦後政府が倒れ、日本に新たな政体(ステイト)が誕生することになります。

まあ話が脱線しましたが、結局、お金(=Gold)がないから、江戸幕府は倒れたわけで、ですから勝った薩長政権も、幕府の財布がカラですから、戦費賠償もとれない。
戊辰戦争でかかった経費は持ち出しだし、新政府にはお金がないところへもってきて、明治5年には、一年が13カ月あるうるう年がやってきたわけです。

こうなると明治新政府は、その年には給料を13カ月分払わなくてはなりません。
まるまる1カ月分、余分に給料が必要になったわけです。
そこで「新暦に変えてしまえば、支払い給与が1カ月分浮く!」というわけで、いささか強引に暦を変えてしまった、というのが、日本における太陽暦のはじまりです。
明治5年暮れのできごとです。

ところが農業は、季節と連動しますから、本当は旧暦の方が都合が良いわけです。
ですから、私達が子供の頃までは、カレンダーといえば新暦と旧暦の両方が表示されているのが普通でした。
旧暦の感覚でいえば、今日(9月30日)は、まだ8月16日で、夏の真っ盛りです。
中秋の名月(旧暦の9月15日)が、いまの暦の10月29日。
暑さ寒さも彼岸までの彼岸の日(秋分の日)が、新暦の9月23日で、これは(旧暦の8月9日)にあたります。
旧暦で9月の終わりは、いまの暦では11月12日になるわけで、こうなるとだいぶ涼しくなっていますね。

ですからたとえば、9月下旬の手紙の時候の挨拶は、「秋涼の候」とか「秋霜のみぎり」なんて使われますけれど、これはいまの暦だと11月半ばです。
だから霜も降る。
つまりぜんぜん季節感と季語の時候の挨拶が連動していないわけです。

四季を大切に思い、感謝する気持ちを忘れない。
このことは日本文化の基本です。
けれど新暦では、どうしても四季という概念にズレが出ます。

我々が子供の頃は、爺ちゃんたちがいまでいう10月の半ばくらいになって、
「もう夏も終わりだねえ」
などといいだしたものです。
10月ですよ。
運動会の季節になって、ようやく「夏も終わりだ」というのです。
太陽暦で育った子どもたちは、それを聞いて「ウチの爺ちゃん、ボケてきた?!」などと思ったものですが、
本当は爺ちゃんたちは、一般世間では太陽暦を使っているけれど、心の時間としては旧暦を保持して四季折々の自然への感謝の気持ちを忘れないようにしていたのかもしれません。
そして孫に、意図して10月の半ばに「夏も終わりだねえ」と言い聞かせることで、孫に大切な四季と四季折々の自然への感謝を教えようとしてくれていたのかもしれない。
それを孫の方は「老人ボケだ」と思っていたわけで、まさに「親の心(祖父の心?)子知らず」であったのかもしれない。

伊勢修養団で教わった食事の時の挨拶です。
ごはんをいただくときに、両手を合わせて次のように声に出して言います。
「天地一切の恵みと
 これを作られた人々の
 ご苦労を感謝いたします。
 いただきます。」

食べ終わったときにも両手を合わせて、
「恵みの食事を終えて
 生命に新しい力をいただきました。
 ごちそうさまでした。」

と言います。
そういう日本の心を、大切に取り戻していく。
その力に、幕末でいうなら薩長が加わったとき、日本は変わります。

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