昨日、一昨日と、二日連続でブログをお休みしてしまいました。
ちょっと無理がたたって風邪をひき、発熱とともに全身に蕁麻疹が吹き出してしまいました。
今朝は、もう大丈夫ですので、ブログも再開しようと思います。

さて今回の記事は、歴史から見た経済問題です。
日本はいま30年続くデフレに苦しんでいますが、ここまで長期に渡る不況は、実は維新後初めてのことです。
歴史的には、日本が以前にデフレ経済で苦しんだのは、戦前の昭和恐慌ですが、この昭和恐慌は、その後に世界大恐慌が加わり、まさに国の不沈に関わる極めて危険な状況となりました。

まず日本は昭和2年(1927年)に、昭和恐慌が始まっています。
これは、第一に関東大震災後に乱発された震災手形の支払猶予期間が終わり、その支払のために国内企業の資金繰りがきわめて悪化したこと、第二に、台湾銀行が鈴木商店に対して3億 5000万円もの不良貸出しをしていることが明るみに出たことから、銀行への取り付け騒ぎが始まり、銀行の休業が続出するというたいへんな事態が起こりました。

これが「昭和金融恐慌」で、この対策のため当時の日本政府は、パニックが始まった2ヵ月後には政府でモラトリアム (支払猶予) を開始し、また日銀から特別救済融資を行うことで、この金融恐慌をわずは数ヶ月で沈静化させています。
ここまでは、政府の行動は実に見事だったのですが、このあとすぐに、当時の日本政府はどういうわけか極端なデフレ政策(物価抑制政策)に走るのです。
この途端にに起きたのが、世界大恐慌でした。

世界大恐慌は、昭和4年10月24日の、ニューヨークのウォール街での株価の一斉暴落にはじまります。
この日が木曜日であったことから「ブラックマンデー」と呼ばれています。

米国のシステムでは、株価が下がると、企業収支が急激に悪化します。
というのは、米国経済は、お金持ちが儲かりそうな企業に資金を出し、企業が儲けて株価が上がれば、出資したお金持ちがもっと儲かる・・・というシステムだからです。
株価が下がれば、お金持ちから資金を預かって企業に投資をしている投資銀行の儲けがなくなります。
儲けのない投資銀行にお金を預けても、儲かることはありませんから、出資者は投資銀行から資金を引き上げます。
すると、投資銀行は破産するリスクが高まりますから、これを知っている普通の預金者たちも、銀行から資金を引き上げようとします。
これが取り付け騒ぎで、預金の払い戻しに応じきれなくなった銀行が倒産します。
すると銀行から融資を受けていた企業が、その銀行からの融資を継続してもらえなくなりますから、企業も倒産。
工場が閉鎖になりますから、労働者は解雇され、失業者が街にあふれる・・・という流れになります。

この事態が起きたとき、米国のフーバー大統領は「この不況は単なる周期的なものです。景気はまもなく回復します」と、政府自体が事態の収拾に動くことをせず、あくまで市場のことは市場原理に任せておけば良いという政策を採りました。
結果、対応が遅れ、米国の不況は深刻化。
その不況は、米国内にとどまらず、米国の勢力下にあったアジアの植民地に波及し、さらにヨーロッパ諸国へと波及していきました。

これにより1929年から32年までのわずか3年3ヶ月で、世界の工業生産は半減。
同年の歳末には、全世界の失業者は5000万人を越えるものとなったのです。

この世界大恐慌で、第一次世界大戦の敗戦国として多額の賠償金を抱えていたドイツは、国家財政が破綻。
失業率が34%という未曾有の事態となりました。
するとそのドイツから賠償金を取り立てていた英国、フランスの経済も、あおりを受けて急速に悪化。
世界は底の見えない不況へと突入していくことになったのです。

米国もヨーロッパ諸国も、この不況は1939年(昭和14年)頃まで続いています。
つまりおよそ10年続く不況となったのです。
そして昭和14年といえば、第二次世界大戦が始まった年でもあります。

この世界大恐慌から、いちはやく脱出できたのが、日本とドイツ、そして世界大恐慌の影響をまったく受けなかったのが当時のソ連でした。
日本は、昭和8年(1933年)には、いち早く景気をV字回復させています。
ドイツは、少し遅れて昭和10年(1935年)には、経済をやはりV字で回復させています。
そしてこの間、ソ連は世界の恐慌に関わりなく、経済を成長させ続けていました。

世界大恐慌からいち早く脱出できた国と、そうでない国。
その違いはどこにあったのでしょうか。
実はここが非常に興味深い。

まず日本は、昭和6年(1931年)に大蔵大臣に就任した高橋是清が、敢然と積極財政に打って出て、経済のV字回復を実現させました。
その積極財政の内容について、一般には「金輸出再禁止、時局匡救事業(じきょくきょうきゅうじぎょう)、政府支出の増額」の3点にあったとされています。

金輸出再禁止というのは、日本から外国にお金が流出することを政府主導で阻止することです。
これは当然のことで、いくら国内で景気刺激策を打ったところで、稼いだお金が外国に流出するようでは、穴の空いた袋に水を入れるようなもので、国内景気は絶対に回復しません。あたりまえのことです。

時局匡救事業というのは、いわゆる公共工事のことで、ダムや公共施設の建設のことをいいます。
現代用語でいうなら、いわゆる「箱物行政」で、要するに公共工事を積極的に推進することで、就業機会を増やそうというものです。

ただし3つの政策の中で、もっとも大きな効果を生んだのは、ほとんど語られることがありませんが、実は「政府支出の増額」です。
これは、ひらたく言ってしまえば、軍事関連産業への大幅な資金注入です。
軍の持つ武器兵器というのは、たいへんな予算のかかるものであるとともに、あらゆる産業の活性化に多大な効果のある分野です。
田中角栄の『日本列島改造論』と同じです。
話が出て、それが現実化しそうだということになった段階で、民間部門の投資が始まるし、受注予定の造船所では、設備投資が始まるし、積載される武器弾薬、家具、調度品、食料、食器、衣類に至る様々な産業で、積極的な動きが始まるのです。
さらに経済は期待値が株価に反映します。
日本の株価の国内市況は、昭和8年(1933年)には、ものの見事に二桁回復を示したのです。

一方、ドイツで日本の経済回復に注目したのがヒットラーでした。
ヒットラーは、国民の完全雇用を約束して昭和8年(1933年)に首相に就任すると、すぐに日本のやり方をさらに徹底する形で、軍事産業を徹底強化していきました。
結果、昭和11年(1936年)には、ドイツ経済は二桁回復を実現するのです。

このことは、周辺のヨーロッパ諸国からしてみれば、ありえないほど羨ましい事態となります。
ヨーロッパ諸国は陸続きで、それぞれの国に、それぞれの国の親戚がいます。
あたりまえのことですが、英国にドイツ人が親戚の人はたくさんいるし、その逆もあります。フランスやオランダ、伊も皆同じです。
自分たちの国の政治家や貴族たちの無策で、就労世帯の半分が失業者という状況なのに、隣のドイツでは、もともと第一次大戦の敗戦国で経済的に一番厳しかったはずなのに、失業者ゼロどころか、いまや未曾有の好況にある。
もともと、ヨーロッパの諸国は外来王朝なのです。
自国の政府をあまり信用していない。
仕事も与えない、世間が不況でパンも買えずに苦しんでいるのに、貴族や政治家たちは相変わらず贅沢な暮らしを楽しんでいる。
冗談じゃねえ。
だったら、ドイツのナチス党に来てもらって、俺たちの国を治めてもらったほうが、はるかにマシだ。。。。
という状況が生まれ、これが昭和14年(1939年)9月のナチス・ドイツによるポーランド侵攻、つまり第二次世界大戦のきっかけとなります。

では、不況にまったく影響を受けなかったソ連は、どうしていたのかというと、これまたソ連の共産党政府が、コミンテルン拡大のためにと、国内でせっせと軍事産業を強化育成していたのです。
結果、世界大恐慌が起こっても、ソ連にはまったく影響が及びませんでした。

ここまでお話しますと、米国は軍産複合体が経済の4割握る国なのに、どうして不況に陥ったのかと不思議に思われる方もおいでになろうかと思います。

米国の軍産複合体が、そこまで力を付けたのは、実は第二次世界大戦後のことです。
第二次世界大戦で勝利した米国は、戦場が常にアメリカ国外であったため、産業インフラが破壊されずに温存されました。
そして戦時中に国家破産寸前まで軍事費に予算を注ぎ込んだ結果、軍産複合体が強大な力を得るに至ったのです。
これは先の大戦による、米国のいわば「成功体験への埋没」と見ることができます。
いちどこのループに入ると、サーベルタイガーが絶滅した生物の定性進化と同じで、種が滅ぶまでその進化が続くことになります。

みなさんがもしAIで、そんな米国の軍産複合体が、今後も設け続けようとするなら、どのような判断を下すでしょうか。
ひらたくいえば、これからの軍事はコンピューター化、AI化が進展します。
それはつまり、軍事力の最適化と最強化が同時に行われるという進歩になります。
そして兵器は使わなければ、新規の受注はありません。
そうであれば、世界の紛争地帯の火に油を注いで、そこに兵器を使わせる。
兵器を買う金は、被害者にみせかけて世界中の同情を買って、世界中から寄付を集める。
そのとき、ATMのようにすぐにお金を出してくれる国は、たいへん重宝な国となるのではないでしょうか。

話を戻します。
日本は、軍事予算を拡大することで、国内景気の底上げを実現し、見事に昭和恐慌、世界恐慌を乗り切ることに成功しました。
けれどそのことは、日本がたとえば軍艦の建造を「国内生産に切り替えた」ことを意味します。
第一次世界大戦までは、軍艦その他の兵器類の多くは、日清日露までならそのすべてを、第一次大戦の頃にもその多くを日本は西欧諸国に発注していたのです。

発注があるということは、受注国からみれば日本は大切な顧客です。
ですから日本が大国ロシアと戦うとなれば、ロシアは武器は自前ですが、日本は自分たちの国から武器を買ってくれている顧客なのです。
しかも日本が負ければ、受注代金の回収がおぼつかない。
そうであれば、当然のことながら、西欧諸国は日本の味方に付きます。
もちろん血を流して戦うのは日本ですが、戦いが常に情報戦であることは、古代も現代も変わりません。

ところが、日本が景気対策のためとはいえ、武器の注文を外国にしなくなり、自前で製造をするようになれば、日本は、自分たちの国の産業のライバルであり、しかも第一次世界大戦後のパリ講和会議(大正8年(1919年)で、日本は人種の平等を説き、欧米の植民地支配によって莫大な富を築いてきた列国の大金持ち貴族らを、完全に敵に回していたのです。

結果、日本は先の大戦で列強諸国を相手に戦うことになり、国を焦土にしてしまい、いまなお精神文化や食文化、医療、薬品から軍事に関して、占領下と同様の状況に置かれています。

と、ここで話が終わってしまったら、これからの日本に何の希望もなくなってしまいます。

大事なことは、世の中は刻々と変化しているということです。
力が正義であり、富は奪うものということが、500年続いた欧米型の支配の構図です。
けれど、そういう世界は、いま終わろうとしています。

互いに助け合うこと、協力し合うこと、愛し合うこと。
そして、はたを楽にさせることが働くこと。
そういった日本古来の文化性が、いま世界中で見直されようとしています。

力の支配の時代から、文化による共同の時代へ。
世界はいま大きく変化しようとしています。
日本は堂々と、いまこの瞬間にできる誠意誠実を果たしていけば良いのです。
このことは、新技術が常に蓄積か収奪からしか生まれないという事実と結びつき、日本が日本古来の蓄積された文化性に目覚めるとき、それが世界を変える原動力となって、いっきに世界の常識を覆すという事態と関連します。

日本は、日本人が日本古来の文化性に目覚めることで、世界のリーダーとしての役割を担うことになるのです。

実は筆者は、このことがどうしても理解できなかった経験を持ちます。
それは、サラリーマンだった頃のことです。
新体制を築くことになったとき、上司から「新しい体制の精神的支柱となれ」と言われたのですが、これが理解できない。
現実的な目先の利益である、昇格とか昇給とかがないのに、精神論か?という疑問しかわかなかったのです。

けれど、いま振り返るとわかります。
もし、そのときに、目先の現実的利益を追わず、その瞬間ごとに起きる様々な出来事に際しての「現場を大切にする」という理念を大切にしていたら、自分ひとりのみならず、おそらくその後の会社の組織も体制も、大きく代わっていたのではないか。
自分一人なんて、取るに足りない一個の存在でしかないけれど、ひとりというのはゼロではないのです。
たとえ一円玉でも、千個集まったら千円になるし、一円足らないだけで、買い物ができなかったりするのです。

最後はなにやら禅問答のようになってしまったかもしれませんが、日本人に生まれたのです。
日本人なら、日本を信頼する。日本の文化を信頼する。
縄文以来、すべてはそこから始まっているような気がします。

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