山上憶良の『貧窮問答歌』は、『万葉集』の巻五に載録されている長歌です。
上の絵にもありますが、おそらくみなさんも一度は、
「この歌は律令体制下の民衆の貧窮ぶりと  里長による苛酷な税の取り立ての様子を  写実的に歌った万葉集の有名な歌です」
などと、教わったことがあろうかと思います。

日教組系の教師になりますと、この『貧窮問答歌』を子供たちに全文暗誦させることまでしていた教師もあると聞きます。
要するに、日本が昔、どれだけ庶民からひどい搾取をしていたかの、これが証拠だから暗記しろ!というわけです。
実は、私も、暗記させられた組です。
ところが不思議なことに、古典の成績は決して悪くはなかったのですが、この暗記だけはまったくできない。
結局テストでは、その問題だけ白紙答案で、学年順位を下げた遠い記憶があります。

ところが、いまあらためてこの歌を読み返してみると、どうにも不思議なことがあるのです。
というのは、まず、この歌が成立したのは、山上憶良が筑前の国司をしていた天平3〜5年(731〜733)頃のことです。
筑前(いまの福岡県)の国司ということは、筑前の全行政に責任を追う者であるということです。
そして民衆が貧しい生活を強いられているとするならば、その責任は当然、全責任を負う国司の責任問題となります。
筑前の国司が、わざわざ、「ウチの国はこんなに庶民が貧乏です」と自慢するかのような歌を読むでしょうか。
またそのような歌を万葉集が掲載するでしょうか。

国司というのは、中央から派遣された、いまでいう県知事です。
戦後の体制の中にあっては、県知事は、その県の人達が選挙によって選ぶとされていますが、戦前までは、古代王朝時代に倣って、中央からの派遣でした。

江戸時代においては、地方の総責任者である大名は、参勤交代で年替わりで江戸詰めでしたし、大名同士で、血縁関係を結ぶなどしていましたから、全国のお殿様たちは互いによく知る間柄でした。
どうしてこのような、県知事同士が互いに顔見知りの親しい関係であることが求められたかというと、そこに大きな理由があります。

日本が「災害大国」だからです。
万一、自国全域が何らかの災害や凶作で食糧不足に陥った場合、豊作となった他国から、お米を融通してもらわなければならないし、またその逆もあるわけです。
畿内が凶作でも、関東が豊作なら、関東からお米をまわす。
関東が凶作で、畿内が豊作なら、畿内からお米を融通してもらう。
日本全国がひとつ屋根の下に暮らす家族のように、そうやって互いに助け合うことができる体制を、社会的な仕組みとして保持しておかなければ、我が国では人が生き残ることができないのです。
そしてこのことは「日本全国天下万民がひとつ屋根の下で暮らす家族のようになって」と述べられた神武天皇の日本建国の詔に記されたことでもあります。

♪トントントンガラリっと隣組〜〜
という発想は、何も隣近所のことだけでなく、大名同士、国司同士で、国を越え地域を越えて助け合いを行なう。
それこそ、災害列島で生き抜く、生活の知恵であり、日本の知恵であったわけです。

国司は、税を取りますが、払う側からしてみれば、凶作などのいざというときには、自分たちが払った何倍ものお米を支給してもらえることになるのです。
その意味では、国司というのは、災害対策保険事務所の所長さんみたいなものといえるかもしれません。

国司たちは、青年期までを中央で過ごします。
そして成人すると、国司の助手として地方勤務になり、長じて国司を拝任します。
つまり、全国の国司同士は、互いによく知る間柄であるわけです。
こうした人間関係が、いざというときに、どれだけ多くの人の命を救うことになるか。

災害は、凶作だけでなく、地震や津波、水害、土砂災害、大火災など、多岐にわたります。
そして被災すれば、復興に莫大な費用と人手がかかるし、復興するまでの民衆の食の確保は、本当に大切な課題といえるのです。

「そうしなければ、日本列島では生きていくことができない」
このことは、我が国の歴史を考える上において、とても大切なことです。

では『貧窮問答歌』を読んでみます。
わかりやすいように、現代語に訳したものを、先に掲げます。

*****
『貧窮問答歌』山上憶良 万葉集巻五

風交(ま)じりの雨が降る夜や、
雨交じりの雪が降る夜は
どうしようもなく寒いので
塩をなめながら
糟湯酒(かすゆざけ)をすすり、
咳をしながら鼻をすする。

少しはえているヒゲをなでて
自分より優れた者はいないだろうと
うぬぼれているが

寒くて仕方ないので
麻の襖(ふすま)紙をひっかぶり
麻衣を重ね着しても
やっぱり夜は寒い

俺より貧しい人の父母は
腹をすかせてこごえ
妻子は泣いているだろうに

こういう時、あなたはどのように暮らしているのか。

天地は広いというけれど
私には狭い。
太陽や月は明るいというけれど
我々のためには照ってはくれない。

他の人もみなそうなんだろうか
それとも我々だけなのだろうか

人として生まれ
人並みに働いているのに
綿も入っていない
海藻のようにぼろぼろになった衣を肩にかけ

つぶれかかった家
曲がった家の中に
地面に直接藁(わら)を敷いて

父母は枕の方に
妻子は足の方に
私を囲むようにして
嘆き悲しんでいる

かまどには火の気がなく
米を炊く器にはクモの巣がはり
飯を炊くことも忘れてしまったようだ

ぬえ鳥のようにかぼそい声を出していると
短いものの端を切るとでも言うように
鞭(ムチ)を持った里長の声が
寝床にまで聞こえる

こんなにもどうしようもないものなのか
世の中というものは。
この世の中はつらく
身もやせるように
耐えられないと思うけれど,
鳥ではないから
飛んで行ってしまうこともできないのだ

*******

ご一読しておわかりいただけるように、あまりに悲惨な民衆の姿が描かれています。
その民衆は、いったいどこの国の民衆なのでしょうか。

従来説では、これは「筑前の民衆の生活を描いたものだ」というのが定説です。
しかし山上憶良は、筑前の国司です。
つまり筑前の民衆の生活について、全責任を担った筑前の長です。

その筑前守が、「俺の国の民衆は、こんなに貧窮しているのだ」と、自慢気に歌を遺すでしょうか。
それでは筑前の国司が、自分の責任を全うできていない、自分は国司として能無しであるということを、世間にアピールするようなものです。
果たして、筑前の国司ともあろう人が、そのようなことをするでしょうか。

さらに不思議があります。
歌の中に、

「つぶれかかった家
 曲がった家の中に
 地面に直接藁(わら)を敷いて」

という描写が出てきます。
原文は「布勢伊保能 麻宜伊保 乃内尓 直土尓 藁解敷而」です。

地面に直接ワラを敷いているというくらいですから、稲作はしているわけです。
(稲作がなければ、ワラもありません)
そして稲作をするなら、普通、家屋は高床式になります。
なぜなら、水田は水を引くため、地面に穴を掘る竪穴式住居では、床に水が染み出してしまうからです。

不思議はまだあります。
「つぶれかかった家、曲がった家」とありますが、日本は地震が頻発する国です。
つまり「つぶれかかった家、曲がった家」では、生活できないのです。
また、高床式住居の場合、柱や梁(はり)が、しっかりしていないと、地震のときに家屋が簡単に倒壊してしまうのです。
ですから古来、日本の家屋は、たいへんにしっかりしたつくりをするのがならわしです。
そして「しっかりした家屋」は、各家族では建てるのも維持するのも大変だから、古民家も大家族で住むように設計され、建造されてきたのです。
これが災害列島で住む人々の知恵です。

「いや、そんなことはない。これは筑前の都市部の民衆の話だ。都市部ならつぶれかかった家、曲がった家もあり得るだろう」という方がいるかもしれません。
けれど我が国は、仁徳天皇が「民のカマドの煙」を見て、税の免除をされるような国柄なのです。
民衆がカマドの煙どころか、「米を炊く器にはクモの巣がはり」というような状況を、一介の国司が招いたとするならば、それこそ責任問題になることです。

加えて『貧窮問答歌』に出てくる人物は、どうやら庶民ではないらしい。
なぜならその人は、「ヒゲをなでながら自分より優れた者はいないだろうとうぬぼれ、俺より貧しい人がいる」人であるわけです。
つまり最下層の人というわけでもない。様子からすると、貴族階級の人のようにも思えます。
ところがそういう人であっても、竪穴式のつぶれかかって曲がった家に住んでいるわけです。

これって筑前国のことなのでしょうか。
そもそも日本のことなのでしょうか。

山上憶良の時代のすぐ前には、半島で百済救援の戦いがあり、また白村江事件で日本人の若い兵隊さんたちが大量に殺されるという事件もありました。
そしてこの歌が詠まれた時代の、わずか60年前には、高句麗が滅亡し、半島は新羅によって統一されています。

筑前には、ご承知の通り大宰府があります。
大宰府という名称は、「おおいに辛い(厳しい)府」という名前です。
この時代の日本は、渤海国との日本海交易も盛んに行っていますが、渤海国との交易のための港には大宰府など設置されていません。
単に国司のいる国府が、その交易管理にあたっていただけです。

それがどうして筑前だけが「辛い府」なのかというと、そこが新羅や唐の国という敵性国家との窓口にあたる場所であったからです。
唐や新羅への警戒から、日本は都を奈良盆地から近江に移したくらいですから、大宰府がいかに国防上の重要拠点とみなされていたかは明白です。
しかも、大陸も半島も、伝染病の宝庫といえるところです。
ですから、出入りする船も、厳しく監督しなければ、病原菌を日本に持ち込まれたらたいへんなのです。

山上憶良は、その大宰府の長官であった大伴旅人とも親しい間柄でした。
そしてこの時代、かつては倭国の一部であった半島南部が、新たに半島を統一した新羅によって、きわめて過酷な取り立てと圧政が行われていたことは、歴史の事実です。

そうした背景を考えれば、この『貧窮問答歌』に歌われている民衆の姿というのは、かつては倭人の一部であった半島の人々の姿であると見るのが正解といえるのではないでしょうか。
つまり、山上憶良は、政治ひとつで、あるいは国の体制ひとつで、ここまで民衆の生活が犠牲になるのだということを、この『貧窮問答歌』であらわしたのではないでしょうか。

幕末から明治初期にかけての李氏朝鮮の様子は、たくさんの写真が伝えられています。

「我が国を絶対にこのような国にしてはいけない!」
その固い決意と信念あればこそ、山上憶良は、あえてこの『貧窮問答歌』を詠んだのではないでしょうか。

『貧窮問答歌』には、短歌が一首付属しています。
その短歌です。

 世間(よのなか)を  う(憂)しとやさしと  おも(思)へども  飛び立ちかねつ  鳥にしあらねば

半島と筑前の間には、海峡があります。
船便が禁止されていれば、倭国へと移動する手段もありません。
だから「飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」。
これで意味がすっきりと通ります。

せっかくなので、もうひとつ。
万葉集の巻20に、次の歌があります。

韓衣(からころも) 裾(すそ)に取りつき泣く子らを 置きてそ来ぬや 母なしにして
読み:からころも すそにとりつき なくこらを おきてそきぬや おもなしにして
原文:可良己呂武 須宗尓等里都伎 奈苦古良乎 意伎弖曽伎怒也 意母奈之尓志弖

この歌もまた、中央朝廷が防人を強制動員していたため、母を失い、父と幼い子だけで生活しているのに、無理やり兵として強制徴用される悲劇を詠んだ歌であると解説されています。
半分正解、半分大間違いです。

原文の「可良己呂武(からころむ)」は、「韓衣(からころも)」のことであるというのは研究成果で間違いのないことですが、現代の国分学会ないし学校教育では、これは「単なる枕詞で意味がない」としています。
果たしてそうでしょうか。
和歌は短い言葉の中に万感を込めます。
無駄な言葉はないのです。

日本は大家族制で、長男が家を継ぎますので、次男以下が防人として徴用されます。
この歌に詠まれているのは、どうみてもその大家族を崩壊させられた家の様子です。
しかも兵の服装が「韓衣(からころも)」だというのです。
ということは、どうみても、これは以前は倭国の一部であった半島南部の様子とわかります。
しかも母のことを「オモ」と詠んでいます。
これは韓国語の「オモニ(母)」と同音です。

要するに、もともとは大家族制だった半島南部の元倭国の住民たちが、いまでは新羅の支配下となり、家族を皆殺しにされ、ようやく生き残った男性と幼子の小さな家族さえも、男性が無理やり子から引き離されて徴兵される。
このような非道がまかり通っていることを俺たちは許すことはできないし、また日本がそのような国に汚鮮されることも決して許すことはできないという、これは防人たちの決意の歌であると読むことができます。

それを初句の「からころも」を「枕詞だから意味がない」、「オモ」とあるのは日本語の母のことであると強弁し、あくまで中央朝廷が非道な存在であったかのように歌の意味を歪めて子どもたちに教育する。
とんでもないことです。

※この記事は2019年12月の記事に大幅に補記を加えたものです。

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