新年おめでとうございます。
皆様はお正月はどのようにお過ごしでしょうか。
ねずブロでは毎年、お正月は
 元旦 その年の干支の話
 2日 天皇の四方拝と初詣のお話
 3日 霊(ひ)のお話
をさせていただいています。
毎年の定番ですが、3つとも日本人として大切にしていかなければならない文化であると思うからです。

今回は3日ですので、霊(ひ)のお話です。

初詣に神社に行きますと、そこで二礼二拍一礼をします。
次に量の手のひらを合わせたあと、右手を左手の指先の第一関節のあたりまで少し下げて、二拍手します。

なぜ右手を下げるのかというと、参拝は神様に「我が身」がご挨拶させていただくのではなく、「自分の霊(ひ)」が神様にご挨拶するからです。
神様にご挨拶するのは、自分の肉体《身(み)》ではなく、自分の魂《霊(ひ)》です。
ですから「霊(ひ)」を意味する《左手》を前に出し、身(み)を意味する《右手》をすこし引きます。

これは玉串奉納も同じで、玉串は「時計回りにまわして祭壇に捧げる」などと説明されますが、時計回りはその通りなのですけれど、要するに最後に祭壇に捧げる段階で、榊(さかき)を持った自分の左手が神様の方に差し出されるのです。
これもまた「霊(ひ)」が先、というところからきています。

昔の朝廷には、左大臣と右大臣がいたことは、みなさまご承知の通りです。
左大臣と右大臣では、左大臣が上です。
なぜなら左大臣は(ひ)だからです。
ちなみに左大臣の座る席は、天皇から見て左側です。
下座から見上げると、向かって右側に左大臣が座ります。

このような「霊(ひ)が上、身(み)が下」という考え方は、我が国にいつから始まったかさえもわからないとても古くからある慣習です。
ただ、律令体制が成立した大化五年(649年)には、初の左大臣に阿倍内麻呂が就任したという公式記録がありますから、すくなくとも七世紀には、すでにこうした文化が定着していたものと思われます。
つまり最低見積もって、1400年以上の歴史を生き抜いた知恵です。

それだけ古くからある慣習ですから、日常生活のあらゆる事柄について、常に「左(ひ)」が先、「右(み)」が後、という文化が定着しています。
立っている状態から正座するときは、まず左足から先に膝をつく。
並んで座るときも、自分の左側が上座です。

ビジネスマナーでは、応接室の席次は、入口ドアから一番離れた席が上座と教えますが、中央に応接室の入り口がある場合、やはり向かって右(座る人から見て左)が上座になります。
youtubeなどの対談も同じで、向かって右が上座です。

あるyoutubeの番組では、年配のオーナーさんが向かって左に座り、若いキャスターが向かって右に座っているものがあります。
これは年配のオーナーさんが、わざわざ謙虚に若者に席を譲っているわけです。
若者の側は、そうと知らずにそのまま着座していますが、そうやって上座を譲ってもらったことへの感謝の気持ちを持たなければならないのが、本来の大人の心得です。

ちなみに昔は、男女は並んで歩くものではなく、女性は男性の右後を半歩下がって歩くこととされていました。
これは「男性は女性を護るもの」という考えから来ていて、仮に前から敵が襲撃してきたとき、男性は右足を右斜め前に出して女性の前に立ち、抜刀して敵の襲撃から女性を護るとされていました。
実際にやってみるとわかりますが、この立ち位置が男女逆だと、男性が抜刀したときに、最初に大事な女性の首を刎ねてしまうことになります。

実は欧米の文化は、男女の立ち位置が逆になっていて、それがレディファーストだと言うのですが、実際には敵の襲撃があったとき、女性を前に出して盾にすることで、男性が逃げるための習慣です。
女性はあくまで男性の所有物にすぎず、いざというときは弾避けに使うというのが、西洋の流儀です。
我が国とは、文化の成り立ちが異なるのです。

こうして左が上、右が下という考え方は、古来からある天皇の「男系」にも影響を与えています。
「ひふみ」と言いますが、これは「霊(ひ)生(ふ)身(み)」のことを言います。
つまり「霊から生まれる身」ということです。

女性は、その「身」から赤ちゃんという「身」を産みます。
赤ちゃんを産むことができるのは、女性だけができることであって、男性にはできません。
けれど、女性の胎内にある「卵」は、何もしなければ、そのまま「月のもの」として排出されてしまいます。
懐妊するためには、女性の胎内の「卵」に、「霊(ひ)」を授けなければなりません。

卵に「霊(ひ)」を授けるのが男性の役割です。
男性はだいじな「たま」で魂(たま)をつくります。
「魂」というのは、「霊(ひ)」のことです。
その「霊(ひ)」を授かることで、女性は懐妊し、赤ちゃんが生まれます。

男女の愛と睦(むつみ)によって生まれる子のことを「血統」と言いますが、天照大御神から綿々と続く「霊(ひ)」の流れを受け継ぐことは、「霊統」を受け継ぐということです。
天皇の権威は、天照大御神から続く、この「霊統」の正統性に依拠します。
従ってその子が、誰の「霊(ひ)」を受け継いでいるのかが重要となり、これが男系天皇の意味するところであり、万世一系の根拠です。

こうしたことは、我が国においては祖代からある常識で、その常識は、わかりやすくて、誰もが覚える数詞としても定着していました。
みなさまも子供の頃、
「ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ、いつ、む、なな、や、ここ、と」
と数えた記憶があろうかと思いますが、算術ではまったく用いることのないこうした数詞を、なぜ世の親たちが子に最初に教えたかというと、この数詞には、我が国における人としての重要事が読み込まれているからです。

まずはじめにの「霊(ひ)生(ふ)身(み)」は、上に述べた通りです。
諸説ありますが、もっともわかりやすいと思われるのは次の通りです。

「ひ」 霊(ひ)のことです。何事も霊(ひ)が先です。
「ふ」 生(ふ)霊(ひ)から生命が誕生します。
「み」 身(み)誕生するのが「身」です。
「よ」 世(よ)霊(ひ)の備わった身(み)が織りなす世です。
「い」 齋(い)いつき(齋)(=清浄)のことです。
「む」 無(む)無であることによって億兆に心が通います。
「な」 菜(な)食のことです。
「や」 彌(や)食があまねく行き渡る。
「こ」 兹(ここ)いつくしみ。
「と」 戸(と)天の石屋戸が開く。

この「ひ」から「と」までを文章にすると次のようになります。
「霊(ひ)から生(ふ)じた身(み)が織りなす世は、
 常に齋(い)として清浄を保ち、
 心を無(む)にして億兆と心を通わせ、
 いただく菜(な)を
 あまねく行き渡らせ(彌(や))る
 いつくしみの心(兹(ここ))で
 あらゆる岩屋戸(と)を開く。」

「世(よ)」は「齋(い)」で、斎(いつ)くものというところから、我が国では清潔が重んじられ、屋敷内は常に清潔に毎日雑巾がけをしてきれいに掃除をするし、野菜などの食べ物も、水でよく洗って調理していただくという習慣になっています。
トイレの神様などといった思考も、実はここから来ています。

心を無(む)にすることというのは、欲をかかないということです。
斎戒沐浴して、心身を清浄に保ち、心を無(む)にして神々とも、そして億兆の人々とも心をつなぐ。
これを別な言い方では、「中今(なかいま)に生きる」と言います。

また、いくら霊(ひ)が本体、身(み)はその乗り物にすぎないとはいっても、健全な精神は健全な肉体に宿るともいいます。
身(み)を粗末にしてはいけない。
生き生きとした新鮮な菜をいただくことで、身の健康を保たなければなりません。

またここで食について、あくまで「菜」という言い方をしているところも興味深いところです。
菜は「あおもの」、つまり野菜全般を指しますが、縄文以来、私達日本人は、野菜と魚類は食べても四足の生き物の肉はいただかなかったということです。

その菜を、あまねくいきわたらせるには、農業の振興とともに、互いのいつくしみの心が必要です。
訓読みで「ここ」という読みを持つ漢字は「兹、此、茊」の3つですが、わかりやすいのは「兹(ここ)」で、下に心を付けると「慈」になります。
要するに「いつくしみ」は、霊(ひ)と身(み)の根幹となる使命であり命題であるということです。

そして「戸(と)」。
我が国で「戸」といえば、天の石屋戸です。
その岩屋戸を開くことで、天地に太陽が戻ったのです。
つらい人生であっても、いつくしみの心を忘れないで生きることで、必ず岩屋戸は開かれる。

これが「ひ」から「と」までの意味です。

「ひふみ」といえば、ひふみ神示を思い浮かべる人もあろうかと思いますが、それよりもずっと古くからあるのが「ひふみ祝詞」です。

◆◆◆ひふみ祝詞◆◆◆

ひふみ よいむなや こともちろらね
しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか 
うおえ にさりへて のますあせゑほれけ

この祝詞の意味や解釈は、やはり長い歳月の間に諸説生まれていますのでここでは省略します。
ただひとついえることは、我が国には、祖代から続く長い歴史と伝統に基づく文化があり、その文化には、それぞれにしっかりとした意味がある、ということです。

私達の先輩の世代までは、幼い頃に数詞として「ひふみ」を教わり、その言葉の持つ意味を成長して学識を得ることによって、それぞれがさらに深い知識とし、これを生きる意味にしていったのです。
伝統が、伝統になったことには、ちゃんと意味があるのです。
そしてその意味が、誰もが納得できる良い内容を持つから、千年以上も、生き続けた伝統となっているのです。

日本人としての、古くからの文化を取り戻すことが、日本を取り戻すということです。
文化を取り戻すというのは、政治を変えるなどということと比べると、かなり遠回りであるように見えます。
けれど実は、日本を取り戻し、日本を変え、世界を変える、もっとも近い道程です。
そのひとつが霊(ひ)の概念です。

日本をなんとかしなければならないと、焦る気持ちはわかります。
しかし、だからといって、焦って過激な行動に走ることはNGです。
まして、日本を変えたい、日本を良くしたいと言いながら、他人や他国の悪口を言って名誉を奪ったり呪ったりすることは、本来の日本人の道ではありません。

そもそも、誰かやヨソの悪口を、向こう百年言い続けても、その誰かが変わることはないし、他所の国が変わることもありません。
相手が変わらないとわかっていながら、ただ文句を言い続けるのは、すこしきつい言い方になりますが、ただの愚痴です。

そもそも悪口を言ったり足を引っ張ったりして、いったどういう未来を築きたいのでしょう。
招く未来は、人と人とが互いに罵り合い、愚痴や悪口を延々と言い立てる、そういう未来でしょうか。
招く未来が、人と人とが互いに切磋琢磨して、より多くの人々が豊かに安全に安心して暮らせるようにしていく、そういう未来にあるのなら、いま心得るべきこと自体が、自分から率先して切磋琢磨し、人々の豊かさや安全や安心に寄与する行動であり発言でなければならないのです。

日本を良い方向に向けるということは、良い方向を向いた日本人を増やす行動をするということです。
そしてそのために必要なこと。
それは、霊(ひ)を自覚することです。

見えない世界は、あります。
知らない世界は、膨大です。
そして世界はいま、「支配の世界」から、「知る世界」へと変わろうとしています。

その過渡期においては、既存のシステムを誇示したり守ろうとしたりする動きが顕著になります。
それこそが末期行動です。
すればするほど、世間から見放されるのです。

また新しい動きには、デマがつきまといます。
それだけにひとりひとりが真実を見抜く目が必要になります。

「知る世界」は、古語でいえば「シラス(知らす、Shirasu)」世界です。
それは日本古来の万年の知恵です。

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