革命が成功したときというのは、その革命を成功させた人たちが以後の政治の中心、つまり権力者になります。
これは世界中どこでも、歴史的にも、全部そうです。
ところが我が国にはこの歴史があてはまりません。
明治維新の際に、維新の立役者となった藩主も武士も、維新成功後に進んで身分を返上しています。
さらに
「四民平等」を実現し、
「版籍奉還、廃藩置県」まで行っています。

当時の官軍側の諸藩で、維新後に内閣総理大臣になったお殿様は、平成5年に内閣総理大臣となった第79代細川護煕氏しかいません。他に誰も居ません。

明治維新後に身分を失ったのは、武家だけではありません。
かつての摂関家を含む公家も身分を失っています。
公家出身の明治の元勲といえば岩倉具視が有名ですが、なるほど彼が養子入りした先の岩倉家は正三位の大納言の家柄ですが、実父の堀川家は中納言格です。
摂関家を今でいう閣僚級とすると、その下の大納言・中納言は省庁の次官クラスにあたります。
また、岩倉具視は若い頃は「岩吉」と呼ばれる京の都のガキ大将でしたが、公家時代の収入は100俵取りです。
つまり、お蔵米を支給される役職でした。

ここは注目すべきことです。
当時の公家や武士たちの給料支給には二通りがあって、ひとつが「石取り」、もうひとつが「蔵米取り」です。
「石取り」というのは、所領をいただき、その領内のお米の出来高を「石」で表したものです。
たとえば500石取りなら、米500俵を算出できる村などの地域(所領や知行地など)を与えられているわけです。
よく1万石の大名などという場合も、理屈は同じです。

年貢の割合が、四公六民なら、1000石✕4割=400石がその武家(貴族も同じ)の取り分でした。
けれども、武家の取り分が400石あったからといって、武家はそれを全部消費できるわけではありません。
で、村人たちが凶作時に餓えないように、また、道路や水路、水害対策の普請、火災時のお蔵米の放出など、その地域の人々の生命財産安全について、その石高を用いて全責任を負っていたのです。

これは天然の災害が多発する日本で、いわば自然発生的に生まれた、日本だけのシステムといえます。
世界では、税は、ただ取られるだけですが、日本では古代から江戸の昔まで、いざというときに備えて、お米を社会全体で備蓄したのです。
ですから、農家にしてみれば、収める税(年貢)は、いわば災害保険のようなもので、いざ災害が起きれば、自分たちが納めた何倍もの食料が返ってくるのです。
このため戦前戦中まで、我が国では納税期間中に滞納する人が、日本中探してもどこにもいなかったといわれています。
世界の常識が、税理士などを使って、お金持ちが極力納税を忌避しようとするのに対し、日本では誰もがいざというときに備えて、キチンと納税していたのです。

さらに加えて、税を取る武士の側は、石高に応じて、家人や郎党の数、屋敷の門構え、馬の数などが細かく定められていました。
もちろんそれに応じて支払いも発生します。

1俵がおおむね1両に相当しました。
1両はだいたいいまのお米の代金で換算すると3万円くらいですが、貨幣価値でいうと、いまの6万円くらいに相当します。
その1俵のお米を算出できる田んぼの面積が、昔の言い方ですと1反です。
1反は、だいたい30メートル四方で、その面積での収穫高が大人が1年に食べる量とされていましたから、これが1俵。
石高なら、1石になるわけです。

ですからいまのお金に換算していうと、千石取りの武士の場合、30キロ四方の地域を所領とし、そこから2400万円くらいの税収を得ていますが、そこから指定された被雇用者の給料を払い、また参勤交代を行い、さらに蓄財を行って、領内で何か問題が発生したら、その対処をしたり、あるいは問題が発生しないように道路や水路、堤防の管理などを行っていたわけです。
決して威張っているだけで良いような楽な生活ではないことがお分かりいただけるかと思います。

また、たとえ千石取りの武家であっても(千石取りといえば大身の武士ですが)、その収入で所領の面倒を万が一の事も含めて全部面倒を見るのは、不可能です。
ですからそのために、大名家の一員となって、いわば団体保険をかけるようにして、万一の対策としたのです。

こうした所領についての考え方は、我が国が天皇を頂点として、その天皇が民を「おほみたから」としているという発想から生まれています。
武士にせよ貴族にせよ、名前こそ所領であっても、それは天子様(天皇のこと)の「おほみたから」であり、その「おほみたから」が豊かに安全に安心して暮らせるようにしていくために、所領を与えられているということが基本認識としてあるからです。
すべてが自分のものであり、領民が私有民という考え方なら、収奪だけしていれば良いことにしかなりません。

また、税が四公六民というと、給料の4割を税金で持っていかれるといったイメージとなり、ものすごい重税のようなイメージになってしまうのですが、これもまた田んぼの収穫高を低めに見積もり、また江戸時代初期の田のみをベースにした取り分で、その後に開発された新田の面積の方が圧倒的に広かったことなどから、実際の出来高換算では、1公9民程度の年貢米となっていました。

当時は大地主制で、地主である庄屋さんなどが村の事実上の管理を行っていましたが、農家そのものが豊かであることによって、村内の様々な出来事に関しては、概ね村内で処理できる体制にもなっていたわけです。
もっともそうでもしなければ、武士にせよ貴族にせよ、所領地に常駐しているわけでなく、参勤交代で江戸詰になったり、城中の勤務のために地元への訪問などは、年に1度できれば良い方でもあったわけですから、十分に目が行き届かないし、さりとて、所領内で一揆の横暴な打ち壊しでもあれば、領主である武士が責任をとらされて腹を斬らなければならないわけです。
武士もたいへんだったのです。

これに対し「蔵米取り」というのは、所領を持たず、ただ上役である大名や貴族から、お蔵米を現物支給される人たちで、幕府でいえば御家人のような下級武士、貴族であれば、宮中に務める下級貴族の給料が、それにあたります。

岩倉具視の100俵取りというのは、これは石高でいうと250石取りに相当しますが、所領を持たず、お蔵米を現物支給されているわけですから、所領(知行地)に対する責任を持ちません。
江戸時代までの日本では、責任と権力は常に一体とされていましたから、責任を持たない者は、それだけ軽輩ということになります。
岩倉具視の岩倉家が大納言格でありながら、岩倉具視自身が「下級貴族」と呼ばれるのは、彼の家が「蔵米取り」という責任負担のない家柄であったことによります。

明治維新は、こうした古くからの伝統的な石高制そのものを打ち破り、給料の支払いを米から現金に変え、所領についての責任制度を廃止した、たいへんな改革であったわけです。
しかしそれだけの改革を実現するということになれば、世界の標準では、ものすごい数の民間分野での死者が出るのが普通です。

明治維新における戊辰戦争の死者は、幕府側の8,625名、新政府側3,588名、合計で13,562名です。
黒船がやってきた当時の日本の人口は3,124万人でから、これは人口のわずか0.04%にしかあたりません。

ところがChinaでは、易姓革命の都度、毎度、国の人口の8割が失われています。
ロシア革命が6割です。
帝政ロシアの人口はおよそ1億といわれていますが、ロシア革命による死者は、なんと6600万人です。
フランス革命は、人的損害という意味においては、成功した革命といわれていますが、それでも当時のフランスの人口は2千万人、革命による死亡者数はおよそ490万人、人口の24.5%が犠牲になりました。

明治維新は、単に自国内での争いというだけでなく、そこに欧米列強、つまり外国が介入した内戦が起きています。
それでいて明治維新がわずかな犠牲で済んだということは、実は世界史ではありえないことなのです。

ところが日本人の感覚からすると、戊辰戦争はきわめて大きな内乱です。
この感覚の違いは、実は、我々日本人にとって戊辰戦争は「政変」に過ぎず、「政変」でありながらこれだけの死者が出たからこそ、たいへんな争いという感覚に包まれるのです。

もし明治維新が、ロシア革命のような「革命」であったのなら、我が国の当時の人口は、約3千万人が、1千万人にまで減少したかもしれない。
大人も子供も老人も女性も含めて、3人に2人が死亡です。
それがどれだけ恐ろしいことか。
その意味では「革命」などというものは、そんなに簡単に待ち望んだりしては、絶対にいけないものであると思います。

左系の人は、いまも共産主義革命を望み、ゲバラを尊敬しているそうですが、ゲバラの行ったキューバ革命による死者は約22万人です。
しかもそのうちの約8割が一般市民です。
民衆のための革命といいながら、なぜ大量の民衆の命が犠牲になるのか。
普通の常識に従えば、彼は偉大な革命家ではなく、ただの殺人鬼です。

ではどうして日本は、民衆の犠牲を伴わずに大規模な改革が可能だったのでしょうか。
その最大の答えは、我が国における改革が、常に「政権交代」の枠組みの中にあったという点です。
つまりロシア革命やキューバ革命、フランス革命、あるいはChinaの易姓革命のような、国の形が変わる革命を、我が国はしなくて済んできたのです。
それができたのは、我が国に天皇がおいでになったからです。

日本の国の形は、はっきり申し上げれば「君主国」です。
頂点におわすのは、もちろん天皇です。
戊辰戦争においても、佐賀の乱でも、西南戦争でも、天皇の「おほみたから」という概念が根底において崩れていない戦いであったから、民衆の犠牲者はほぼ皆無に近く、どこまでも責任を持つ武士たちの戦いの枠組みを外れることがなかったのです。

これは、我が国の天皇が古来政治権力を持たず、政治権力よりも上位の存在として民衆を「おほみたから」としてきたからこそ実現できたことです。
なぜなら、政治を担う者は、常に「天皇のおほみたからを支える立場」にあたるからです。
これによって民衆は権力者の私有民、奴隷、被支配民とならずに済んできたし、政治の枠組みの大改編に際しても、民衆の血を求めずに済んできたのです。

これがわかると、天皇の存在を否定する人たちというものが、どのような思考に基づいている人たちなのかがはっきりと見えてきます。
それは「自分が世間の、あるいは社会の支配者になりたいというきわめて幼稚な思考しか持たない人たち」です。
なぜなら、「国家最高の存在は権力者でなければならない」という概念しか持っていないからです。
要するに外国かぶれです。

明治維新にせよ、大日本帝国憲法にせよ、欧米列強という侵略者たちに立ち向かうために積極的に彼らの文化や軍事を採り入れざるを得なかったという時代背景のもとに生まれたものに過ぎません。
しかしその目的はなにかといえば、我が国の万年単位で続く、平和な国柄を、民をこそ「おほみたから」とする国柄を護るために行われたものです。

従って、明治以降に生まれたものが、必ずしも正しいものではないことになります。
なぜなら、欧米で生まれた大航海時代以降の西洋文明は、支配と隷属、一部の者の利益のみを重視する文明にほかならないからです。
彼らは、キリスト教を信仰しますが、キリスト教の教えは、民を子羊として慈しむものであると聞きます。
そうであれば、なぜ、その民が犠牲になり続ける政治体制がいまも続くのでしょうか。

現代の常識を、あらためて日本の歴史から眺めてみる必要の理由が、ここにあります。

お読みいただき、ありがとうございました。

※この記事は2018年1月のねずブロ記事のリニューアルです。

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