福沢諭吉の格言として有名な言葉に、
「天は人の上に人をつくらず人の下に人をつくらず」があります。
『学問のすすめ』の冒頭に出て来る言葉です。
いまの日本人なら、おそらく誰もが一度は聞いた事がある言葉でしょう。

意味は、
「天は人々に、
 みな生まれながらにして貴賤(きせん)上下の差別なく、
 自由自在、互いに人の妨げをなさず、
 おのおのが安楽にこの世をれるようにしている」
というものです。
これは「学問のすゝめ」の「天は人の上に・・・」に続けて、諭吉自身がそのように書いていることです。

戦後教育では、この言葉を切り取って、
「人にに上下なんかないのですよ。
 だから人はみな平等なのですよ」
と教えます。
メディアも同じです。

ところが・・・・です。
実際に福沢諭吉の「学問のすゝめ」を読んでみると、諭吉は、冒頭のこの言葉の後から、すぐにこのことを否定しているのです。
ちょっと読んでみます。

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと
 一般にはいわれるけれど、
 現実に世間をみれば、
 かしこい人もあれば、おろかな人もある。
 貧しい人もいるし、富める人もいる。
 生まれたときから貴人もあれば、
 最初から卑しい身分で生まれて来る人もいる。
 その様子はまるで雲と泥の違いと同じです。」

つまり福沢諭吉は、世間一般では「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずみたいなことをいうけれど、現実には、生まれたときから、雲と泥ほども違っているいるではないか」と書いているのです。
だからこそ、
 学問が大事だ。
 知的武装が大事だ。
 すこしでも賢くなれるように
 努力することが大事だ。
という論が『学問のすゝめ』で展開されているのです。

それを、あたかも諭吉が
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と、人類の平等を説いているかのように教えたり、
「人は誰しも天賦の才があり、あらゆるものを持っているのだから、それを引き出すのが教育であり、価値観を押し付けるのはよくない」などというのは、
実は「教育を破壊する悪魔の囁き」です。

どんなに天賦の才があったとしても、人が生まれながらに境遇その他に差異があることは客観的事実です。
そうであれば、努力することしか人がその差を埋める手段はありません。
何が大事かを決めるのが価値観です。
つまり努力を教えることは、まさに価値観の押しつけであり、むしろ「押し付けるべきこと」です。

諭吉はこの「学問のすゝめ」の中で、次のような事も書いています。

「世の中で
 無知文盲の民ほど哀れなものはない。
 知恵のない者は、恥さえも知らない。
 自分が馬鹿で貧窮に陥れば、
 自分の非を認めるのではなく、
 富める人を怨み、
 徒党を組んで乱暴をはたらく。
 恥を知らざるとや言わん。
 法を恐れずとや言わん。」

ここでいう「法」とは、国の刑法のことを言っているのでは有りません。
法律に書いてあろうがなかろうが、誰も見ていなくてもお天道様がみていらっしゃるといった慣習法をも含みます。
つまり意味合いとしては、むしろ「神を恐れずとや言わん」といった意味になります。

どんなに学校の成績が良くて、エリートコースを歩んできたとしても、ネットや言論空間で他人への批判や中傷ばかりをしていたり、すぐに自分を被害者に仕立てて周囲を怨んで敵対したりするのは、まさに「恥を知らざるとや言わん。
法を恐れずとや言わん」です。

チャイナやコリアの海水浴場は、とにかく人も集まるけれど、足の踏み場もないほどのごみの山です。
その様子を見て、チャイニーズたちは、政府の無能を指摘します。
一方、日本の海水浴場は、とてもきれいです。
日本人が自分でゴミを持ち帰るからです。

福沢諭吉の指摘はまだまだ続きます。

「こういう愚民を支配するには、
 道理をもって諭(さと)すのは無駄なことである。
 馬鹿者に対しては、ただ威をもっておどすしかない。
 西洋のことわざに、
 愚民の上に苛(から)き政府あり、
 とはこのことである。
 これは政府の問題ではない。
 愚民がみずから招くわざわいである」

現代日本は、
 若者の自殺率世界一です。
さらに、
 精神病院の数世界一
 精神病院の病床数世界一
 精神病患者数世界一
 食品添加物の使用量世界一
なのだそうです。
日本の政府は、日本人のための政府になっているといえるのでしょうか。
しかしこれらは実は、米国のせいでもなければ、政府のせいでもないのです。
「愚民がみずから招くわざわい」なのです。

さらに続きます。

「人は万人みな同じ位にて生まれながら
 上下の別なく自由自在云々というけれど、
 それは権理道義が対等だということであって、
 貧富、強弱、智愚の差は、
 はなはだしいほどあるのだ。」

人には身分の上下もあれば、金持ちも貧乏人もある。
そういう意味では、人はそれぞれがみんな違っている。
けれど、人としての権理通義は、あくまで【対等】だ、
そこには一厘一毛の軽重もないのだ、と説いています。
その通りと思います。

さらにいえば、「権理通義」は、人に名誉心があってこそ成立するものです。
名誉心のない権理の主張や通義の主張は、個人の欲得から生まれる傲慢です。
その傲慢や欲得を押さえるものが道徳(通議)です。

道徳は、伝統的価値観に基づきます。
つまり古くからある、もっといえば「古い」ということが、社会的伝統的な価値観を形成し、その伝統的価値観が、その社会における正義です。

共産主義は逆です。
古いものは「オクレたもの」と規定し、最新のものだけが正義であるとします。
けれどもその正義には、伝統的価値観による裏付けがありませんから、いきおい、共産主義組織のトップの傲慢と我儘と暴力による支配が、社会における正義であると置き換えられます。
だから大量殺戮が起きるのです。
共産邪霊による大量殺戮は、果たして正義でしょうか。

ちなみに、人の名誉を奪うことは学問がなくてもできますが、
名誉を築くためには学問が必要です。
そして名誉は一代限りですが、正義は、何百年、何千年の時の蓄積によってのみ形成されます。
いまの日本は、日本社会の一番の根底にある正義を失っています。
このため多くの日本人に名誉心がなくなり、金銭への欲得だけが独り歩きしています。
だから狂うのです。

平等は、かけっこをして、一等者もあれば、ビリの子もいるけれど、全員を一等賞にしてしまう、というのが、平等です。
けれど、実社会において、そのような観念は通用しません。
世間は厳しい競争社会なのですから、あたりまえのことです。
対等は、あいつは勉強では一番だけど、俺はかけっこでは一番だ、これでツーペー(対等)だ、という考え方です。
平等は、人と人との差異を認めませんが、対等は、人に差異があることを前提として、そのなかで自分の自活の道をひらこうとするのです。
それが対等意識です。

世の中は、もともと不平等です。
けれど人は、対等になれるよう努力することができます。
天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずというのは、その努力のことをいいます。
努力することのみが、人の生まれながらの上下関係をひっくり返すことができる最大の武器だからです。

だから「学びましょう」と諭吉は説いています。
ちなみに、諭吉は対等ではなく、同等という言葉を使っています。

では何をどう学べばよいのか。
これについても、諭吉はおもしろいことを書いています。

「文字は学問をするための道具にて、
 たとえば家を建てるのに、
 槌(つち)や鋸(のこぎり)が必要だというのとおなじです。
 槌や鋸は家を建てるに必要な道具だけれど、
 その道具の名前ばかりを知っていて、
 家を建てる方法をしらないなら、
 大工とはいえません。
 ということは、文字を読むことばかり知っていて、
 物事の道理をわきまえない者は、
 これを学者とはいわないのです。」

歴史教育は、いわば企業研修などにおけるケーススタディに近いものがあります。
自社の何らかの過去の事件をケースに、ケーススタディを行おうとするとき、
それが何年に起きて、事件名は何で、当事者は誰と誰であったのかをひたすら丸暗記しても、何の意味もありません。
そうではなく、その事件がどのような経緯で発生し、その原因が何であったのか、そしてどのように対処したらよかったのかを、実例を元に学ぶから、ケーススタディが意味を持ちます。
歴史教育というのは、まさにこれを過去の歴史の中で行おうとするものです。
しかし戦後の社会科歴史的分野の教育は、ただ年号等の丸暗記です。

また、いかなる学問であれ、それを学ぼうとする人が、「物事の道理をわきまえない人」であるなら、それはまさに、マンガに出て来る「マッドサイエンティスト」であり、キチガイです。
では、物事の道理は、何によって学ぶことができるかと言えば、それこそが学問です。

福沢諭吉の「学問のすゝめ」はたいへんよく読まれた本です。
ところが戦後左翼は、この言葉の一部だけを切り取り、あたかも諭吉のこの言葉が、共産主義的平等思想であるかのように偽装しました。
他人の言葉の枝葉末節だけをとりあげ、イメージだけで事実をねじ曲げるのは、まさに左翼のお家芸ですが、こういう、いわば現代日本人の常識となっている言葉ですら、意図的なねじ曲げを行うことは、非道です。

近代史研究家の落合さんが、おもしろいことをおっしゃっていました。
その言葉を、今日の最後に掲げさせていただこうと思います。

「左翼思想は妄想
 運動は詐欺
 統治は犯罪
 悲劇は繰り返す
 予防が大切」

※この記事は2013年2月のねずブロ記事のリニューアルです。

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