以下は「水師営(すいしえい)」という題で、かつての国民学校初等科6年(いまの小学6年生)の国語教科書に書かれた一文です。
この文章を読んで、皆様は何をお感じになられるでしょうか。

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「水師営」
国民学校初等科国語六

明治38年1月5日午前11時・・・この時刻を以って、わが攻囲軍司令官乃木大将と、敵の司令官ステッセル将軍とが会見することになりました。
会見所は、旅順から北西四キロばかりの地点、水師営の一民屋でした。
附近の家屋という家屋は、両軍の砲弾のために、影も形もなくなっていました。
この一民屋だけが残っていたのは、日 本軍がここを占領してから、直ちに野戦病院として使用し、屋根に大きな赤十字旗をひるがえ していたからでした。

前日、壁に残っている弾のあとを、ともかくも新聞紙で張り、会見室に当てられた部屋には、大きな机を用意し、真白な布を掛けました。
下見分をした乃木将軍は、陣中にふさわしい会見所の情景にほほ笑んだが、壁に張ってある新聞紙に、ふと目を注いで、
「あの新聞紙を、白くぬっておくように」
といいました。
新聞紙は、露軍敗北の記事で満たされていたからです。

さきに1月1日、ステッセル将軍は、わが激しい攻撃に守備しきれなくなって、ついに旅順開城を申し出て来ました。
乃木将軍はこの旨を大本営に打電し、翌日、両軍代表は、旅順開城の談判をすませたのでした。

その夜、山縣参謀総長から、次のような電報がありました。
「敵将ステッセルより
 開城の申し出でをなしたるおもむき
 伏奏せしところ、
 陛下には、将官ステッセルが
 祖国のために尽くしたる勲功をよみしたまい、
 武士の名誉を保持せしむることを望ませらる。
 右つつしんで伝達す」

そこで3日、乃木将軍は、津野田(つのだ)参謀に命じて、この聖旨を伝達することにしたのです。
命じられた津野田参謀は、二名の部下をつれて、ステッセル将軍のところへ行きました。

ステッセル将軍は、副官にいいつけて、軍刀と、帽子と、手袋とを持って来させ、身支度を整えてから不動の姿勢を取りました。
津野田参謀が、御沙汰書(ごさたしょ)を読みあげると、副官は、これをロシア語に訳して伝達しました。

ありがたく拝受したステッセル将軍は、
「日本の天皇陛下より、
 このようなもったいないおことばをいただき、
 この上もない光栄であります。
 どうぞ、乃木大将にお願いして、
 陛下に厚く御礼を申しあげてください」
といって、うやうやしく挙手の礼をしました。

乃木将軍が、

 たむかひし かたきも今日は 大君の
 恵みの露に うるほひにけり

と詠んだのは、この時のことです。

4日に、乃木将軍は、ステッセル将軍に、ぶどう酒や、鶏や、白菜などを送りとどけました。
長い間籠城(ろうじょう)していた将士たちに、このおくり物がどれほど喜ばれたことでしょう。

会見の当日は、霜(しも)が深かったけれど、朝からよく晴れました。
11時10分前に、ステッセル将軍が会見所に着きました。
白あし毛の馬に、黒い鞍(くら)を置いて乗っていました。
その後に、水色の外套を着た将校が四騎続きました。

土塀(どべい)で囲まれた会見所に入り、片すみに生えていたなつめの木に、その馬をつなぎました。
まもなく、乃木将軍も、数名の幕僚とともに到着しました。
乃木将軍は、黒の上着に白のズボン、胸には、金鵄勲章が掛けられていました。
静かに手をさしのべると、ステッセル将軍は、その手を堅くにぎりました。
思えば、しのぎをけずって戦いぬいた両将軍です。

乃木将軍が、
「祖国のために戦っては来たが、
 今開城に当って
 閣下と会見することは、
 喜びにたえません」
とあいさつをすると、ステッセル将軍は、
「私も、11箇月の間旅順を守りましたが、
 ついに開城することになり、
 ここに閣下と親しくおあいするのは、
 まことに喜ばしい次第です」 と答えました。

一応の儀礼がすむと、一同は机を取り囲 んで着席しました。
ステッセル将軍が、
「私のいちばん感じたことは、
 日本の軍人が実に勇ましいことです。
 殊(こと)に工兵隊が自分の任務を果すまでは、
 決して持ち場を離れないえらさに、
 すっかり感心しました」

というと、乃木将軍は、
「いや、ねばり強いのは、ロシア兵です。
 あれほど守り続けた辛抱強さには、
 敬服のほかありません」
という。

「しかし、日本軍の28サンチの砲弾には、弱りました」
「あまり旅順の守りが堅いので、
 あんなものを引っぱり出したのです」
「さすがの要塞(ようさい)も、
 あの砲弾にはかないませんでした。
 コンドラテンコ少将も、
 あれで戦死をしたのです」

コンドラテンコ少将は、ロシア兵から父のようにしたわれていた将軍で、その日もロシア皇帝の旨を奉じて、部下の将士を集めて、激励していたさなかでした。
「それに、日本軍の砲撃の仕方が、
 初めと終りとでは、
 ずいぶん変って来ましたね。
 変ったというよりは、
 すばらしい進歩を示しました。
 たぶん、攻城砲兵司令官が代ったのでしょう」

「いいえ、代ってはいません。
 初めから終りまで、同じ司令官でした」

「同じ人ですか。
 短期間にあれほど進むとは、
 実にえらい。さすがは日本人です」

「わが28サンチにも驚かれたでしょうが、
 海の魚雷が、山上から泳いで来るのには、
 面くらいましたよ」

うちとけた両将軍の話が、次から次へと続きました。
やがてステッセル将軍は、口調を改めて、
「承りますと、閣下のお子様が、
 二人とも戦死なさったそうですが、
 おきのどくでなりません。
 深くお察しいたします」
とていねいに悔みをのべました。

「ありがとうございます。
 長男は南山で、次男は二百三高地で、
 それぞれ戦死をし ました。
 祖国のために働くことができて
 私も満足ですが、あの子どもたちも、
 さぞ喜んで地下に眠っていることでしょう」
と、乃木将軍はおだやかに語りました。

「閣下は、最愛のお子様を二人とも失われて、
 平気でいらっしゃる。
 それどころか、
 かえって満足していられる。
 閣下は、実にりっぱな方です。
 私などの遠く及ぶところではありません」

それからステッセル将軍は、次のようなことを申し出ました。
「私は、馬がすきで、
 旅順に四頭の馬を飼っています。
 今日乗ってまいりました馬も、その中の一頭で、
 すぐれたアラビア馬です。
 ついては、今日の記念に、
 閣下にさしあげたいと思います。
 お受けくだされば光栄に存じます」

乃木将軍が答えました。
「閣下の御厚意を感謝いたします。
 ただ、軍馬も武器の一つですから、
 私がすぐいただくわけにはいきません。
 一応軍で受け取って、
 その上、正式の手続きをしてから
 いただきましょう」

「閣下は、私から物をお受けになるのが、
 おいやなのでしょうか。
 それとも、馬がおきらいなのでしょうか」

「いやいや、決してそんなことはありません。
 私も、馬は大すきです。
 さきに日清戦争の時、乗っていた馬が弾でたおれ、
 大変かわいそうに思ったことがあります。
 今度も、やはり愛馬が弾で戦死しました。
 閣下から馬をいただけば、
 いつまでも愛養いたしたいと思います」

「あ、そうですか。よくわかりました」

「ときに、ロシア軍の戦死者の墓は、
 あちこちに散在しているようですが、
 あれはなるべく一箇所に集めて墓標を立て、
 わかることなら、
 将士の氏名や、生まれ故郷も書いておきたいと思いますが、
 それについて何か御希望はありませんか」

「戦死者のことまで、深いお情をいただきまして、
 お礼のことばもありません。
 ただ、先ほども申しましたが、
 コンドラテンコ少将の墓は、
 どうか保存していただきたいと思います」

「承知しました」

やがて用意された昼食が運ばれました。
戦陣料理のとぼしいものではあったが、みんなの談笑で食事はにぎわいました。

食後、会見室から中庭へ出て、記念の写真を取りました。

別れようとした時、ステッセル将軍は愛馬にまたがり、はや足をさせたり、かけ足をさせたりして見せましたが、中庭がせまいので、思うようには行きませんでした。
やがて、両将軍は、堅く手をにぎって、なごりを惜しみながら別れを告げました。

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国語の教科書というのは、単に漢字を学んだり、文中の「それ」が何を指すのかを指摘することを学ぶだけのものではありません。
文全体を通して、そこから何を読み取り、何を感じるのか。
そして感じたことを、どのように自分の言葉や文章で表現するのかを学ぶ科目です。

今回ご紹介した水師営の会見も、この文全体を通じて、作者が何を伝えたかったのか、そして読者が何を得るのかといったことを学んだのです。
果たしてここに書かれていることは、軍国主義の礼賛でしょうか。

この文が書かれているのは国語の教科書であって、社会科の教科書ではありません。
社会科なら、このようなやりとりがあった旅順要塞戦というのは、どのような戦いであったのか、が課題です。
国語では、この文が子供に教えようとしていることは、武士として(あるいは人として)、節度を重んじ、秩序を守り、そしてたとえ敵であっても、思いやりの心を大切にし、相手を人として遇していこうとする、きわめて高い精神性です。
これを自分の言葉で表現していこうというのが、国語教育です。

これを「国民精神の涵養」と言いました。
「国民精神」とは、現代風に言えば「アイデンティティ」のことです。
「アイデンティティ」は、よく「自己同一性」などと訳されますが、もっと端的にわかりやすく日本語に訳すなら「〜らしさ」です。
つまり「日本人らしさ」を「涵養」するのが、日本の教育であったのです。

男らしさ、女らしさ・・・
同じ男らしさでも、信長の男らしさと、家康の男らしさでは違います。
様々な歴史上の人物を学び、そこから自分らしさを見つけていく。
それが本来の教育ではないでしょうか。

戦後は、そうした「らしさ」の教育が、「価値観の強制にあたる」として排除されています。
しかし、「〜らしく生きる」ということは、その根幹に「人間らしく生きる」という共通項があります。
ということは、戦後教育は「人間らしさ」を排除していることになります。
あまりにも馬鹿げています。
不登校の生徒が増えているといいますが、さもありなんです。

世界で日本人が認められるのは、日本人が金持ちで強欲でわがままだからではありません。
欲の皮の突っ張った、少しでも金があると思えば、傲慢で尊大になり、相手の方が金があると思えば、手をすり合わせてペコペコするような、ただ目先の欲だけに突き動かされて、とにもかくにも自分さえ良ければといった人や国になることは、我々日本人の望みではありません。

戦前の日本を知る東南アジアや南太平洋のお年寄りたちが口を揃えて言うことは、
「いまの日本人は日本人ではない」、です。
あの、やさしくて、立派で、勇気があって、一緒に歌を歌ってくれた日本人と、いまの日本人は違います。

私達日本人は、戦後、さまざまなものを手に入れました。
そしてそれまでには考えられなかったような、すばらしく豊かで平和な日本を築き上げました。
けれど、だからといって人として大切なことを忘れてしまってはいないでしょうか。

人として大切なことを忘れてしまった人のことを「人でなし」といいます。
国なら「国でなし」です。
これでは国そのものが成立しなくなります。
神々は、そのような国を、けっしてお許しになられません。

末尾に、この旅順要塞戦跡地に行った時に、そこに掲示してあった碑文の写真を掲示します。
私には、伝えるべきメッセージが違うと見えるのですが、みなさんは、この文章を読んで何をお感じになられるでしょうか。

※この記事は2013年3月のねずブロ記事のリニューアルです。

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