第109回倭塾は、2024年5月25日 12:30-17:00 の開催です。場所は富岡八幡宮/婚儀殿2F。テーマは「マネーの歴史とこれから」です。みなさまの奮ってのご参加をお待ちします。詳細はコチラ→https://nezu3344.com/blog-entry-5957.html


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聖徳太子がお隠れになられたとき、太子の死をすべての人が嘆き悲しみました。
年老いた者は、まるで我が子を失ったかのようでした。
若者たちもまた、父母を失ったかのように、泣きむせぶ声が満ちあふれたと記録されています。

聖徳太子の没後、再び蘇我入鹿が専横をしはじめました。
朝廷では、聖徳太子の子である山背大兄皇子に次の天皇に御即位いただこうとされましたが、これを察知した蘇我入鹿は、643年、武力をもって山背大兄皇子を襲いました。

逃げ落ちるように説得する家来たちに、山背大兄皇子は、
「戦いによって多くの臣民の命が失われてはならぬ」と、御自害されています。

こうして聖徳太子の子孫は絶え、目に余る蘇我氏の専横が極まるようになりました。

「このままではいけない」
舒明天皇は、我が国の理想を歌に詠まれました。
その歌が、
「天皇、香具山に登りて望国くにみしたまふ時の御製歌」
として『万葉集』にのこされています。

 山常庭    やまとには
 村山有等   むらやまあれど
 取与呂布   とりよろふ
 天乃香具山  あめのかくやま
 騰立     のぼりたち
 国見乎為者  くにみをすれば
 国原波    くにはらは
 煙立龍    けぶりたちたつ
 海原波    うなばらは
 加万目立多都 かまめたちたつ
 怜忄可国曽  うしくにそ
 蜻嶋     あきつのしまの
 八間跡能国者 やまとのくには

意味は概略すると次のようになります。

「恵みの山と広い原のある大和の国は、
 村々に山があり、豊かな食べ物に恵まれて
 人々 がよろこび暮らす国です。
 天の香具山に登り立って
 人々の暮らしの様子を見てみると、
 見下ろした平野部には、
 民(たみ)の家からカマドの煙が
 たくさん立ち昇っています。
 それはま るで果てしなく続く海の波のように、
 いくつあるのかわからないほどです。
 大和の国は、人々が神々の前でかしづき
 感動する心を持って生きることができる国です。
 その大和の国は人と人とが
 出会い、広がり、また集う美しい国です」

この歌について、舒明天皇が単に「大和の国は美しい国だ」と呑気に詠まれたのだ解釈しているものをよく見かけます。
和歌をどのように解釈するかは、その人の自由ですが、そのような解釈をされる方は、天皇の御製というものは、時代の「示し」であることを忘れています。

我が国において、天皇は国家最高の御存在です。
その天皇のお言葉は、まるで神のお言葉であるのと同様に影響力を持つお言葉であり、和歌です。
別な言い方をするなら、それは「数ある未来から、ひとつの未来を示すもの」です。
だからこれを「示し」と言います。

「示し」というのは、「戦略に先立って未来を示すこと」です。
よく戦略や戦術が大事と言いますが、戦略も戦術も、そもそも仮想敵国をどこにするのかという「戦略に先立つ未来への示し」ががなければ、構築のしようがないものです。
現代用語では、これを「戦理」といいます。

その意味で、国の頂点にある存在の最大の使命は「戦理を示すこと」です。

舒明天皇は、「うまし国」と詠まれました。
原文では「うまし」は、「怜(忄可)し」と書かれています。
《「忄可」は、りっしんべんに可というひとつの漢字です》

「うまし」は、単なる「美しい国」を意味する用語ではありません。
怜(忄可)の「怜」は、神々の前でかしずく心を意味します。
「忄可」は、良い心を意味します。訓読みが「おもしろし」です。
古語で「おもしろし」は、感動することを言います。

ここでいう「おもしろい国」という言葉は、我が国の古語における「感動のある国」を意味します。
昨今では、吉本喜劇のようなものをも「おもしろい」と表現しますが、それでも例えばとっても良い映画を観た後などに、「今日の映画、おもしろかったねえ」と会話されます。
この場合の「おもしろい」は、「とてもよかった、感動的した」といった意味で用いられます。

「民衆の心が澄んで賢く心根が良くて、おもしろい国」というのは、聖徳太子がお隠れになられたときの民衆の反応に見て取ることができます。
人々が互いに助け合って、豊かで安心して安全に暮らすことができる国だから、素直な心で、いろいろなことに感動する心を保持して生きることができるのです。

つまり「うまし」は、
「人々が神々の前でかしづき
 感動する心を持って生きることができる国」
という意味の言葉です。

ということは、舒明天皇は我が国の姿を、
「民衆の心が澄んで賢く心根が良くて、おもしろい国」
と示されているのです。

特定一部の人が、自分の利益だけを追い求め、人々を出汁(だし)に使うような国柄であれば、人々は使役され、収奪されるばかりで、安心して安全に暮らすこができる「うまし国」ではありません。
とりわけ日本は、天然の災害の宝庫ともいえる国ですから、一部の人の贅沢のために、一般の庶民の暮らしが犠牲にされるような国柄では、人々が安全に暮らすことなどまったく不可能であり、さらに何もかも収奪されるような国柄では、とても人々はなにかに感動して生きるなど、及びもつかない国柄となってしまいます。

舒明天皇の時代は、強大な軍事帝国の唐が朝鮮半島に影響力を及ぼし始めた時代であり、内政面においては蘇我氏の専横が目に余る状態になってきていた時代でした。
そんな時代に、舒明天皇は、「うまし国ぞ、大和の国は」と歌に詠まれたのです。
それは、舒明天皇が示された我が国本来の姿の「示し」です。

そんな父天皇を持った中大兄皇子は、宮中で蘇我入鹿の首を刎ねます。
「乙巳の変」です。645年の出来事です。

蘇我本家を滅ぼした中大兄皇子は、皇位に即(つ)かず、皇太子のまま政務を摂られました。
これを「称制(しょうせい)」と言います。
我が国では、天皇は国家最高権威であって、国家最高権力者ではありません。
このことは逆に言えば、天皇となっては権力の行使ができなくなることを意味します。
ですから中大兄皇子は、大改革を断行するにあたって、皇位に即(つ)かれなかったのです。

そして同年、中大兄皇子が発令したのが「公地公民制」です。
これによって、日本国の国土も国民も、すべて天皇のものであることが明確に示され、またその天皇が、あえて権力を持たずに国家最高権威となられることで、民衆こそが「おほみたから」という概念を、あらためて国のカタチとすることを宣言したわけです。

このことは、当時の王朝中心主義の世界にあって実に画期的なことであったといえます。
なにしろ、21世紀になったいまでも、日本の他には、国家最高の存在が国家最高権力者である国しかないのです。

また、大化の改新では、それぞれの土地や財産は、「家」という法人を単位とすることが定められています。
もちろん、当時「法人」という言葉はありませんが、たとえばその家が10反の田んぼを持っていれば、それはその家の人たちの共有財産とされたのです。
そしてその家の代表者が「戸主(あるじ)」とされました。

戸主はあくまで代表者であって、その土地の支配者ではありません。
土地も財産も、そのすべては、そこに住み、そこで働く人たちの共有物であると考えられたのです。
ですからその家族のひとたちにとって、眼の前にある我が家の土地は、それぞれの自分の土地でもあるのです。
こうして土地と人々の一体感が熟成されたのことが、我が国独自の社会の仕組みです。
この制度は、明治31年の民法改正まで、およそ1200年間、ずっと我が国の体制として続いたものです。

一方、中大兄皇子は、百済救援のために朝鮮半島への出兵を意思決定されます。
倭国は勇敢に戦いましたが、気がついてみれば、百済救援のために新羅と戦っているはずが、百済の王子は逃げてしまうし、新羅は戦いが始まると逃げてばかりで、まともに戦っているのは、倭国軍と唐軍でした。
これでは何のために半島に出兵しているのかわかりません。

さらに白村江で、倭国兵1万が、新羅の騙し討にあって犠牲になりました。
亡くなった倭国兵たちは、その多くが倭国の地方豪族の息子さんと、その郎党たちです。
この禍根は、後々まで尾を引きました。

亡くなったのは、そのほとんどが豪族たちの子です。
豪族たちにしてみれば、我が国が天皇を中心とする国家であることは、誰もが認めるし、納得もできるものです。
そして天皇がおわす朝廷の存在によって、いざ凶作となったときには、全国的な米の流通が行われて、村の人々が飢えることがないように租庸調の年貢があることも、誰もが納得できるものです。
けれど、白村江でウチの子が死んだのです。
この感情は、どうすることもできません。
理屈ではわかっていても、感情が納得しないのです。

この禍根は、天智天皇から数えて三代後の持統天皇の時代にまで続きました。
持統天皇が行幸先で、誰とも知れぬ一団に襲撃を受け、矢傷を受けられるという事件も起きているのです。
国内的には、まさに分裂の危機であり、その分裂は、そのまま唐による日本分断工作に発展する危険を孕んだものであったのです。

こうしたなかにあって、兄の天智天皇から弟の天武天皇への皇位の継承が行われました。
表面上は、天武天皇が軍を起こして天智天皇の息子の大友皇子を襲撃したことになっています。
しかし、よく考えてみると、これはおかしなできごとです。

天智天皇は大化の改新によって、実に革命的に多くの改革を行いました。
当然、そうした改革は、ものごとが良い方向に向かうようにするために行われるものです。
しかし短兵急で強引な改革は、必ず改革によって不利益を被る者を生じさせるのです。
これは、唐の国の脅威の前に、どうしても国をひとつにまとめなければならないときに、逆に国を分裂されるものです。

そこで天智天皇は、国内を意図的に天皇派と、反天皇派に分裂させたのです。
そして反天皇派の人たちの期待を、弟の大海人皇子に集めるのです。
ここは大事なところです。
これを日本という法人の、統一派と反統一派にしてしまったら、国は分断されてしまうのです。

天智天皇の凄みは、これを天智天皇個人への賛同派と抵抗派に分けてしまわれたことです。
こうすることで、天智天皇に抵抗する人たちの期待を、大海人皇子に集め、大海人皇子が軍を起こして、天智天皇を葬るのです。
大海人皇子が天皇に即位されても、もともと天皇派の人たちは、素直に大海人皇子に従います。
天智天皇に反発していた人たちもまた、天智天皇に刃を向けた大海人皇子に従います。
結果、日本は統一されるのです。
もっとも、弟の大海人皇子にしてみれば、尊敬する兄貴に刃を向けるのは、いくらなんでも苦しい。
ですから、天智天皇は先にお亡くなりになられたことにして、その子の大友皇子に刃を向けることになりました。
これが壬申の乱です。

この壬申の乱によって、大海人皇子は、天武天皇として御即位されました。
こうして、天武天皇のもと、天智天皇派の人たちも、反天智天皇派の人たちも、その両方が天武天皇に従うことになりました。
国がひとつにまとまったのです。

正史は、天智天皇亡き後、天武天皇が兵を起こしたことになっています。
そして天智天皇の子の大友皇子は、人知れず処刑されたことになっています。
けれど、大友皇子の処刑を観た人はいないのです。

天智天皇の崩御にも疑問が残ります。
天武天皇の正妻は、持統天皇です。
その持統天皇は、天智天皇の娘です。
そして天武天皇が、皇位に即位されたあと、事実上の政務の中心となって改革を継続したのが、その持統天皇です。
しかも持統天皇は、なぜだか31回も吉野に行幸されています。

これは正史には書かれていないことですが、個人的には、おそらく天智天皇は生きておいでであったのだろうと思います。
生きていても、当時の考え方として、出家されれば、この世のすべてを捨てて、今生の天智天皇としては崩御したことになるのです。
そして吉野に隠棲し、そこで僧侶となる。

弟の天武天皇に皇位を継承させるためには、天智天皇に集中した国内の不満分子を、まるごと天武天皇が味方に付けてしまうことが一番の選択です。
そして皇位継承後は、娘の持統天皇が、皇后として政治に辣腕を揮う。
幸い、きわめて優秀な高市皇子が、政務を執るのです。
天智、天武、持統、高市皇子のこの強い信頼関係のもとに、あらためて日本は盤石の体制を築いたのではないか。
そのように個人的には観ています。

天智天皇と天武天皇が兄弟であったことさえ疑う意見があることは承知しています。
しかしそのことを示す史料はなく、この不仲説の根拠となっているのは、万葉集における天智天皇、天武天皇、そして天武天皇の妻であり一女まである額田王の歌が、根拠となっています。
しかしその根拠とされる歌も実は、その意味をまるで履き違えた解釈によって、歪められていたという事実は、このたびの拙著『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』で詳しく述べた通りです。
(まだお読みでない方は、是非、ご購読をお勧めします)

不幸なことに、天武天皇のまさかの崩御によって、鵜野讚良皇后が持統天皇として即位されます。
そして持統天皇が、敷いたレール、それが、反対派を粛清したり抹殺したりするのではなく、教育と文化によって、我が国をひとつにまとめていくという大方針です。

万葉集も、そのために持統天皇が柿本人麻呂に命じて編纂を開始させたものです。
こうして我が国の形が固まっていきました。
それは高い民度の臣民によって培われた、民度の高い国家という形です。

我が国が、国家形成の揺籃期に、このような素晴らしい天皇をいただいたことは、我が国の臣民として、たいへんに幸せであったことだと思います。
爾来1300年、我が国は、庶民の高い民度によって支えられる盤石の国家が築かれてきたのです。

近年では「日本国は昭和20年の敗戦により、昭和27年に新たに建国された国だ」という学者の先生や政治家がいます。
それは、英語で言う「ステイト(State)」のことです。
「ステイト」は、国家、政府、行政組織などの政治的組織のことを指し、その意味では明治の大日本帝国も「ステイト」だし、徳川政権の日本も「ステイト」、織豊時代なら信長政権、秀吉政権ステイトですし、室町幕府時代は足利ステイトです。

けれど日本は、縄文以来1万7千年以上も続く文化の蓄積のうえに立つ国であり、2683年前の神武創業以来の天皇の知らす国でもあります。そしてそうした文化的、言語的、民族的な結びつきを持つ人々の集団としての日本は、英語なら「ネイション(Nation)」として区別されます。

我々日本人は、いまあらためてネイションとしての日本にもともと備わった歴史伝統文化を取り戻し、民衆こそが大御宝であるとする、民衆のための究極の民主主義国家を取り戻していく必要があると思います。

※この記事は2019年12月の記事のリニューアルです。

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