「論」という字の訓読みは、「あげつらふ」です。
「あげつらふ」は、お互いに顔(つら)を上げて、相手の目を見て討論するという意味です。
中世から近世にかけては、目上の人には平伏して、下の者は上の人に許可されるまで顔をあげることができないものでしたから、顔(面)をあげて、相手の目を見て討論するというのは、上下関係の秩序とは別なものです。

秩序は人間社会にとって大切な(必要な)ことです。
しかし秩序ばかりを重んじて、論(あげつらふ)ことを失うと、独断専横の世の中になります。
大陸系の文化では、この独断専横を重んじます。
なぜなら独断専横は、意思決定が迅速であり、戦争に有効だからです。
外敵が常に人であり集団であるならば、これに打ち勝つには人を集めて戦うしかない。
けれど戦えば死者が出ますから、その戦いにあたっての兵は、できれば自分たちの集団ではない者たちを使用することが好ましい。
そこから奴隷兵の概念が生まれるわけで、簡単に言えば死んでもらっても構わない者たちを兵として使役することで、身の安全を図り、権力や富を維持しようとするわけです。

ところがこうした考え方は、日本では通用しません。
なぜなら日本は、天然の災害が多発する国土を持つからです。
幸いにして天災が数十年にわたって起きないでいてくれれば、大陸型の上下と支配、隷民の使役による富の構築などが、その災害のない期間中は有効になります。
けれど、ひとたび大きな災害が襲えば、上下と支配の関係は成立し得なくなるのです。

なぜなら災害復興のためには、多くの労働力が必要です。
災害によって疲弊した地域の人々が、復興への大きな希望を保つためには、被災地となったエリアに住む人々の生活に、日頃から一定のゆとりと、高い民度がなければなりません。
このゆとりと高い民度があるから、日本では大地震の直後でも人々がコンビニの前に並ぶことができるのです。
すべての富を、人口の上位1%の人が握り、あとはすべて生きていることが精一杯の奴隷という社会では、災害が起きれば、生き残った人々は暴動をし、あるいは略奪をするしか生き残る術がないのです。

また次に大きな災害がやってきたときに、被害を最小限に食い止めるためには、防災工事の正確を期さなければなりません。
そのためには、何よりもみんなが納得ずくで完璧な工事や予防対策、復興工事などが行われる必要があります。
どこかに手抜き工事があれば、たとえばそれが堤防なら、その場所から堤防が簡単に決壊してしまうからです。

要するに古くからの国の形が、
(1)「戦火・人災」への生き残り策として形成されてきた
(2)「天然の災害」への生き残り策として形成されてきた
この違いが、日本の特殊性を形成しているということができます。
そして(2)が成立するためには、国民がそれぞれに高い民度を持ち、相互に秩序を重んじながらも、同時にちゃんと建設的な論(あげつらふ)ができるという国民性が必要になります。

ところがこのことは、同時に(1)の権謀術数型の国から見たときに、(2)の国はきわめて工作のしやすい国ということになります。
なぜならその論の場に、強硬に反対だけを主張する者を送り込みさえすれば、(2)の社会は何も決めることができなくなるからです。

ですから十七条憲法では、第三条において
「詔(みことのり)を承けては必ずつつしめ」
というルールを定めています。
討論では、互いに激論を交わして良いけれど、討論をつくして結論が詔(みことのり)として出されたときには、どんなに自分が反対の意見を持っていたとしても、出た結論にちゃんと従いなさいという意味です。

しかしそのためには、
「高い民度を持ち、
 相互に秩序を重んじながら
 同時にちゃんと建設的に
 論(あげつらふ)ことができる国民性」
が必要になります。

これが我が国が1400年前に制定した憲法の精神です。
十七条憲法は、単に「和を以て貴しとなす」ことをうたいあげた憲法ではありません。

「それ事(こと)は独(ひと)りで断(さだ)むべからず。
 必ず衆(もろもろ)とともによろしく論(あげつら)ふべし。
 少事はこれ軽(かろ)し。必ずしも衆とすべからず。
 ただ大事を(あげつら)ふに逮(およ)びては、
 もし失(あやまち)あらむことを疑へ。
 故(ゆへ)に、衆(もろもろ)とともに相弁(あいわきま)ふるときは、
 辞(ことば)すなわち理(ことはり)を得ん」

これが第17条です。
「物事は独断で決めてはいけません。
 必ずみんなとよく討論して決めなさい。
 小さな事、自分の権限の範囲内のことなら、
 ひとりで決めても構いませんが、
 大事なこと、つまりより多くの人々に
 影響を及ぼすことを決めるときには、
 必ずどこかに間違いがあると疑い、
 かならずみんなとよく議論しなさい。
 その議論の言葉から、
 きっと正しい理が生まれます。」
というのが、この条文です。

そしてこの条文が、第一条の文言につながるのです。
「一にいわく。
 和を以(も)って貴(たつと)しとなし、
 忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。
 人みな党(たむら)あり、
 また達(さと)れるもの少なし。
 ここをもって、
 君父(きみやちち)に順(したが)わず、
 また隣里(となりのさと)に違(たが)ふ。
 しかれども上(かみ)和(やわら)ぎ
 下(しも)睦(むつ)びて
 事を論(あげつら)うに諧(かな)うとき、
 すなわち事理(ことはり)おのずから通ず。
 何事か成らざらん。」

つまり十七条憲法は、あくまで上下の身分を越えて顔を合わせて議論することの大切さと、そのためのルールを定めた憲法なのです。
ただ単に「和を以て貴しとなせ」というだけではない。
それにそもそも「和を以て貴しとなせ」というのなら、なぜ「和」が大事なのかの理由が明確にされていなければなりません。
その理由を明確にしないで、単に頭ごなしに「和が大事」と述べているのが憲法だというのなら、それではただの教条主義であり、どこかの新興宗教と同じです。

そうではなく、まず冠位十二階があり、身分の上下を明確に定めたうえで、十七条憲法においては、その身分の垣根を越えて、互いに心を開いて議論しましょう。
そうすることで我が国は間違いのない、あるいは少ない、国になることができるのだ、ということを示したのが十七条憲法であるわけです。

これは五箇条の御誓文の第一「広く会議をお越し万機公論に決すべし」と同じことです。

日本人は、ただ和を大切にするというだけの、ヤワ民族でもなければ、チキン国家でもありません。
常に天然の災害に囲まれている日本は、その事前事後の対策のため、常にみんなとの合意の形成を大事にしてきたのです。

※この記事は2020年6月のねずブロ記事の再掲です。

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